◆日清戦争の刺激

 日清戦争が小樽港に与えた刺激は、和船から汽船への転換と寄港する汽船の激増ぶりによく表われている=表3。32年になると、遂に函館を追い越してしまう。20年の移出入額は149万円で全道の12.2%だったが、30年には3,864万円、48.8%と名実共に北海道随一の港になっている。

表3・小樽港出入船隻数
(単位隻、小樽市史から)

 こうした情勢の中での会議所の活動は、日本郵船会社の定期船問題によく表われている。33年刊の月報10号は、同年6月に開かれた第6回総会が日本郵船会社の定期東回り線の航海回数増加を決議し、会社だけでなく函館・仙台両会議所へ働き掛けたことを伝えている。
 決議は、明治18年以降、多い年は10数隻で年間130~187回も運航し、昨年は9隻百30回、月13~17回の実績がありながら、この7月から2隻を減船し月10回にするとの会社措置には承服出来ないとし、東回り神戸・小樽線は内国航路の大幹線で国内商業の大動脈、しかも北海道拓殖事業に最密接な関係があるから、昨年11月の定期航路保護期限満了後も航海度数を減じないよう、政府に建議し、衆・貴両院に請願していたと、定期船の効用について次のように述べる。
 「時間的に正確な定期船は、旅客だけでなく書信、貨物の集散に秩序を与え、当業者は日時を予定して仕事ができるから損害を予防し、需用と供給の均衡、物価の平準を図れる。これに対して、貨物の堆積で動く臨時便には商業上の秩序を保つ能力なく、地積狭く倉庫・物置が不完全な小樽では船目当てに集荷する出来秋の農産物などは目も当てられなくなる。
 交通の枢軸たる定期船だから、国家経済上に不利益な結果をもたらさないよう、拓殖上からも多々益々多きを望む ─ 」と結ぶ。

◆御三家の日本郵船

 20年11月に、逓信省が定期航路の運行を命令する代わりに年額88万円を日本郵船に下付した制度は、冬になると運賃が高騰しながら赤字で欠航してしまうような離島航路などには有効だった。翌21年には小樽─増毛間に月5回、貨客船矯竜(ケプロン)丸を運航するため年額1,500円の補助を郵船会社に出している。
 近代日本が国家として世界経済に乗り出す際の御三家が三井物産、横浜正金銀行と日本郵船だったという。戦後になると横浜正金銀行は東京銀行と改名し、さらに三菱銀行と合併するという。三井物産は三菱商事に追い掛けられ昔日の勢いはなくなったかに見えるものの、旧財閥系の力は失っていない。
 明治38年に日本郵船が北海道総括支店を小樽に設置することを決めた。日露戦争の結果、日本が極東水域の覇者になったことが明瞭になったから。写真7は39年10月1日の郵船支店竣工説明会当日の風景。通りに万国旗がひらめく華やかさが感じられる。戦後処理の日露国境画定会議がこの郵船支店2階で開かれた。

写真7・明治39年10月1日の日本郵船支店竣工説明会当日

 外壁は北海道産の軟石、内部の調度品は英国ロンドンから運んだ。豪華な舶来品に囲まれた建物は、戦後の昭和31年に小樽市が600万円で買って、市立博物館に生まれ変わって一般公開された=写真8。44年に国の重要文化財に指定されたのに伴って、市博物館は運河沿いの旧小樽倉庫に移転した。「小樽運河とその周辺地区環境整備計画」による公園化計画が進む。

写真8・市博物館になった郵船支店は国の重要文化財

◆小樽商人も挑戦するが─

 船が大量輸送機関として時代の脚光をあびてくれば、小樽商人が黙っているはずがない。明治22年7月に天塩北見運輸会社を設立、オホーツク沿岸と小樽を結ぶ海上ルートを目指したが30年には早くも倒産。原因は天候不順だというが─。
 日本最大の海運会社になった三菱財閥系の日本郵船は、25年に横浜─函館航路と、神戸起点横浜経由の東回り線と下関・新潟経由の西回り線が小樽に延長された。26年10月に室蘭─青森航路が青森─函館─室蘭の三角航路になり、小樽からの人や荷物は室蘭経由に移る。 こうした海の道と同時に、地上の鉄道レールも小樽に集まる。上野─青森間が24年、翌25年に室蘭─岩見沢が結ばれ、函館─小樽間の函樽鉄道は31年から測量が始まり、日露戦争寸前の37年9月に完成。函樽鉄道で沿線の商品農産物の6割が小樽商人の手に入ったと言われた。
 都市の成長を1番はっきりと示す尺度が人口、だといって良いだろう。もちろん、人口だけが都市度を表す基準だとはいえないことは知っている。人口でも年齢別男女比をピラミッド状にグラフ化する手法もある。生産人口と老齢人口の比率から、都市年齢をはじき出す人もいる。ここでは、単純に全道人口と小樽市民の数を対比してみよう=表4

表4・小樽市人口の推移
(市統計・『小樽の繊維』から作成)

 ほぼ5年ごとに全道と小樽の人口を並べ、それぞれの明治五年人口を100人とした推移指数に、小樽が全道に占める割合(対道比)を%で出した。これから言えることは、開拓政策がようやく軌道に乗った明治30年ころ、北海道は急速に人口が増えて100万に近づき、小樽は全道の7%台に乗る。小樽経済の景気は5%を切る昭和10年代まで好調だった。
 札幌、函館とともに区制が敷かれた明治32年10月現在で、道庁が告示した人口数は函館が83,285、小樽65,777で、札幌38,874だった。当時の都市の規模がうかがわれる数字になっている。小樽人口は日露戦争直後年間3~4,000人ずつの増加が、大正に入ると1、2年は1,000人台に減り、1次大戦による支店・出張所ブームが起きた4、5年になって3~4,000人ベースに戻っている。