小樽商工会議所の歴史

小樽商業会議所の創立

 小樽商業会議所の創立については、明治20年代にはすでに有志から話が出ていたが、明治28(1895)年に設立準備に関する具体的な調査を開始、12月2日設立認可を受けた。当時の小樽は、まだ小樽郡と高島郡に分かれていたため、認可における地域は、小樽郡堺町ほか29町、高島郡色内町ほか5町となっていた。12月に開かれた創立委員会や発起人会で創立費・会員選挙規則などを決めた。
 翌年3月には創立費・会員選挙規則が認可され、小樽新聞の時評欄では、「商業会議所は、樽港商業家の玩弄物に非ず、商業発達の一大機関たるを知れ、商勢拡張の一大動力なるを知れ」とあり、小樽の商業発展に資することが期待されている。
 6月、200人あまりの有権者による会員選挙が実施され、規定数25名の会員が選ばれた。8月には定款が認可され、初代会頭山田吉兵衛、副会頭渡辺兵四郎を選任、渡辺は山田家の番頭格であったため、山田を補佐する副会頭として最適だった。以後、会頭は小樽の政財界を代表する人物が就任していくことになる。
 12月に予算が認可され、本格的な活動を開始、明治30(1897)年4月25日、魁陽亭に200名以上の来賓を招き、開所式を挙行した。最初の事務所は港町30番地に置かれていた。

小樽商業会議所の活動

 明治32 (1899)年10月札幌・函館は同時に区制が施行され、小樽区となる。小樽の商業は益々盛んになる一方、政治面でも活発化、商業都市小樽での国や区の施策は、商業全てにわたって、商業会議所が、各種業界団体のまとめ役はもちろん、営業税・建物割(建物にかかる税金)の課税問題にも大きな役割を果たした。
 鉄道・道路・航路といった交通、鰊漁をはじめとする漁業、対ロシア・中国貿易などについて、国や区に建議書や請願書を提出、小樽高等商業学校(現小樽商科大学)・庁立小樽中学校(現小樽潮陵高校)などの学校、為替貯金支局などの行政機関誘致に、区と一体になって活動した。
 懸案であった市街地の鉄道線路の移設や、運河式か埠頭式かで区を二分する論争となった埋立問題などにも積極的に動いた。会議所会員の中には利害関係者が多かったから、その調整は難しく、運河式で着工するまで相当の年月を要した。区と実業家代表の会議所が車の両輪のように力を合わせて小樽区の事業を進めていった。

小樽商業会議所の移転と事務所の新築

 明治38(1905)年12月31日、港町の商業会議所は類焼、新しい事務所は翌年8月起工、明治40(1907)年6月19日小樽公園内に新築移転、10月9日落成式を行った。
 大正5(1916)年7月から大正7(1918)年9月までは、区とともに誘致に尽力した小樽為替貯金支局に事務所を提供、会議所は移転。貯金支局竣工後、元の事務所に戻ったが、半年後、煙突からの出火で焼失。仮事務所は区役所に置かれ、以後は再三移転、大正14(1925)年1月から色内町の「銀行街」の一角、三菱銀行小樽支店内(三菱ビル4階)にようやく落ち着いた。
 昭和3(1928)年1月1日、商工会議所法の施行により、小樽商工会議所に改称、その活動範囲を工業関係にも拡げていく。昭和8(1933)年3月、待望の新事務所の地鎮祭が行われ、9万円をかけた鉄筋コンクリート造の建物の竣工式は10月11日挙行された。この建物は平成21(2009)年7月小樽経済センターの現事務所になるまで使われ、小樽市指定歴史的建造物になっている。

戦中~戦後の小樽商工会議所

 昭和12(1937)年、戦前小樽の輝きを象徴するような、小樽市主催北海道大博覧会が北海道庁・小樽商工会議所後援で開催された。7月には慮溝橋事件が起きていたが、まだ戦時色はなく、昭和初期の不景気から脱した明るさが漲っていた。しかし戦線は次第に拡大、昭和16(1941)年12月の対米宣戦布告以後、企業統合などの経済統制により小樽も大きな打撃を受ける。昭和18(1943)年6月1日施行の商工経済会法により商工会議所は改組、8月25日札幌で北海道商工経済会創立総会が開かれ、会頭には小樽の山本厚三が就任、小樽商工会議所は北海道商工経済会小樽支部となる。
 昭和20(1945)年8月の終戦により戦時体制は解消され、翌年9月商工経済会法は廃止される。廃止前の8月には小樽商工会議所設立準備会、9月には創立総会を開催、戦前最後の会頭であった松川嘉太郎が引き続き会頭に就任した。
 再発足した小樽商工会議所は、引き続き市と連携しながら、小樽の基盤整備はじめ商工業にとらわれない広い分野における陳清・要望活動を行った。その後社会情勢の変革により、商工会議所の果たす役割は様変わりしたが、創立120年を迎えた小樽商工会議所の新しい歴史はこれから始まる。