◆運河論争
札樽バイパスを延長し、運河を埋立てた跡に道道臨港線を建設することが、小樽市の都市計画で決定したのが昭和41年。小樽の歴史的遺産として運河を保存しようと呼び掛けた反対派市民グループと行政側との対立が永く続き、“小樽運河戦争”は全国的な市民運動として有名になった。
この10年戦争ともいわれた小樽運河論争では終始埋立て派だった。道道臨港線建設促進期成会長を引き継いだ会議所首脳陣が見直し表明をした時でも、常議員会で再三反対派批判の先頭に立った。幅40メートルの運河の半分を埋立てて、片側三車線の道路を造る工事が実施されたのは59年秋だった=写真11。
「わしたち埋立て派はマスコミなどでずいぶん叩かれたが、埋立て成功後は誰もそれに触れたがらない」と自伝の中では不本意な口振りだ。美しいせせらぎが流れ、大型バスが乗り付け遊歩道に観光客があふれている。倉敷市と肩を並べる全国的に有名な観光地になったといっていい─などともいう。
運河の周辺は異臭が立ち込めた時期に比べれば、確かに変わった。JR小樽駅前から海側に下る中央通りが、6車線の道道臨港線と交差する場所の運河に架かる中央橋付近は、本州方面からの観光客がいつも集まっているし、小樽倉庫を利用した運河プラザの屋根には商売繁盛を祈ったシャチが上げられ、郷愁を誘うガス灯も立っている=写真12。
小樽倉庫は明治23年から38年にかけて造られた運河沿いで最古の石造倉庫だった。屋根に上げた瓦製のシャチが港に入る船からはよい目印になった。明治37年の大火の時、運河沿いに焼け残った石造倉庫群に市民はびっくり。以後急速に石造建築が普及した。和洋折衷様式による開拓期の歴史遺構とされ、2億2,900万円で小樽市が買取って運河プラザの名称で観光施設にしているほか、市立博物館にもなっている=写真13。
運河の西側、竜宮橋に近い大家倉庫は、北陸の北前船衆出身大家七平の営業倉庫だった。切妻屋根に立ち上がる越し屋根はユニークな形で、豆撰工場向けに採光と通風を目的にした。土地家屋台帳に明治36年建設となっている=写真14。
現在でも、軍艦みたいな北海製缶の建物が汚れを清めた運河の水に写っているし=写真15、その脇の広い片側3車線の道道を大型トラックが走る=写真16。戦後しばらく小樽の代名詞みたいに言われた“斜陽都市”の汚名を返上したかのような光景なのだが─。
しかし、板敷の道を鉄輪の荷馬車がゆっくりと往来していたような有幌の石造倉庫が立ち並んでいた場所=写真17は、今では道路のために削りとられてコンクリートの壁に変わり、コンクリートミキサー車みたいな大型車が唸りを上げて疾走している=写真18。こんな現状が小樽なのか何か考えさせられる。
駅前からの中央通りが臨港線と交差する場所にある運河上の中央橋。見ている運河は残った半分だけということを観光客は知っているか=写真19。
「明治生まれの男っぽい男でした」と元市長が語る、今や1つの伝説的な人物になってしまっている。私の記憶に残る円吉さんは小柄な顔に一杯の汗を滲ませながら、新日本海フェリー初就航のテープを切っていた晴れがましい姿である。
◆日本海を走るフェリー
小樽在住の菅原春雄道ゴルフ連盟会長が道内から初めての日本ゴルフ協会常任理事に就任─というニュースが95年の新聞に顔写真入りで報じられた。運河地区再開発委員長としての活躍も知られ、「ああ、あの人も健在か」の感に浸る。
新潟航路に2万トン余の「あざれあ」号も就航し、高さ11メートル長さ250メートルという日本最大の空中回廊が5階建てのターミナルとフェリーを結ぶ。さらに戦前の小樽とは特に縁が深かった樺太・大泊港、今はロシア領サハリンのコルサコフと結ぶ日ロ定期フェリー開設が当面する大きな課題になっており、現会頭が団長になった道使節団も現地に出かけている。