◆街の変遷
専修大学の荒巻孚教授が『北の港町小樽ー都市の診断と小樽運河』(古今書院、59年刊)の中で、「小樽発展のありさま」と題して明治元年から昭和53年までの小樽市の地図を4枚並べて比較している。これを借用して、小樽市史にあった明治32年の港図と入れ替えたのが図3「街の変遷」。
明治元年ではヲコバチ、イロナイともに原始河川そのもの。それが15年になると、手宮鉄道が走り、公園まである。32年図は市街地が水天宮の丘を挟んで、色内・手宮方面まで伸びている。大正13年図では港内の海岸線は埋立て地と埠頭が続く。
明治44年発行の小樽区写真帖にある40年の向井呉服店が写真7。木造2階建ての店の背後に、レンガ積み4階建ての堂々とした建物が写っている。大正7年に発行された開道50年を記念した北海道拓殖写真帖に収まった明治42年の小樽神田館が写真8。石造3階建ての屋上に設けられた塔屋の壁に、小樽神田館のローマ字が描かれるというモダンさが当時の小樽の先進性を表象している。
国道を挟んだ現在の花園町は、商店と飲食店が軒を連ねる繁華街になっている。国道と平行して海岸側を走る第1大通りがまだ舗装されていない明治27年ころ、花園町第1大通りに面して住吉座の幟が立っている=写真9。この住吉座をさらに1回り大きく改築した錦座が完成し、活動写真と呼ばれて大衆娯楽の主流に登場して来たばかりの映画を芝居と交互に上演した=写真10。
◆花園町と稲穂町
この錦座はさらに松竹座に変わるが、大正11年発行の小樽区写真帖に「花園町のにぎわい」と題した写真11がある。第1大通りは函館本線と交差するので、小樽・南小樽駅間の汽車はかなり多かったから踏切りが閉じている時間も長く、市街バスが通るようになって立体交差にしてという声も出るようになった。写真12の道路上に見える斜めの棒2本が鉄道踏切り。
第1大通りは於古発川通りまでが稲穂町、稲穂町第1大通りは銀座街とも呼ばれる。写真13の右側2階建ての河野呉服店が戦後に改造され、ニューギンザデパートに生まれ変わっている。
運河が港湾機能を代表していた時代は、駅前から海岸に行く中央通りと海岸線を平行する色内大通りの交差点付近が小樽最高の地価だった。今は旧安田銀行支店跡に北海経済新聞社が入っている場所にあった篠田洋物店前から、大売り出しの宣伝部隊がスタートしようとしている=写真14。アイスクリーム、ポマードといった商品の名を書いた色とりどりの幟を立て、楽隊を先頭に仮装行列が賑やかに町中を練り歩いた。