初代会頭の山田吉兵衛の生涯は、小樽の街の成長とともに歩んでいたことを改めて確認する。生まれは松前藩の城下町福山。小樽に移住した松村家の三男が、漁業と回船業で既に財をなしていた小樽の名家山田兵蔵の養子になり、明治3年に15歳で家督を継いで開拓使小樽出張所の金穀御用逹を勤める。翌年春に善太郎の幼名を吉兵衛と改めた。
(1)福山から移住(2)小樽有力商人の養子に(3)若くして家督相続 ─ 吉兵衛の生涯は、松前藩政期の蝦夷商権が開拓使時代になって小樽に移った過程をなぞっているような、明治初期における小樽商人形成の典型的なタイプを示している。
20歳で小樽郡教育所事務取扱、信香町ほか4町の総代人、小樽相場会所取扱などを勤め、小樽郡の町村戸長、浦役人といった公職を立派に果たしてやめた時が28歳。その翌年に信香町29番地の自宅で活版印刷所を始めている。いくら若者が活躍した明治維新の時代とはいえ、ただ者ではない。
養父兵蔵は、幕末期の1860年の穂足内村時代に御用所備蓄米500俵を寄付した江州出身の商人。山田は屋号だった。
◆市内唯一の人名地名
地域の経済活動に人と物の移動は不可欠で、それには道路が必要。だから兵蔵は自分の商売のためにも、まちづくりに早くから手を染めていた。2865(慶応元)年5月に土場町から出火し、金曇、信香両町の妓楼などを焼いた大火の復興に際し、溝渠を掘って新地町を新たに造っている。
兵蔵に続いて、吉兵衛も明治15年1月、所有地の相生町から水天宮山の西裾を通って堺町のオコバチ川までの路線造成を、私費で実施したいと郡役所に出願する。海が時化ると、勝納河口にあった市街地から手宮港方面へ行く海岸道路の通行が出来なかった。役所の許可を得て雪解けを待って着工し、翌年2月完成。途中の橋を含めて経費427円全額を吉兵衛が負担したことに感謝した地元が、19年5月山田町と命名した。
水天宮下付近は今でも山田町だ。高層ビルの山田マンションが立ち、水天宮の神社鳥居前の道路脇に「山田町会 水天クラブ」の看板を見た。小樽市内に残る唯一の人名起源の地名として、現在でも健在だ。
◆7年と24年の港湾図
林顕三は1843(天保14)年に北陸の金沢に生まれ、戊辰戦争の会津攻めで官軍の金沢藩士として負傷した。明治六年に北海道を経由して樺太に渡ろうとしたが、果たせず。その後北海道開拓に従事しようと、道内各地を旅する。この時、小樽の模様も自著『北海紀行』にまとめている。図1は同書の「北海道後志国小樽港内図」をもとにした、明治7年当時の小樽見取り図だ。
右下に手宮波止場の桟橋が突き出ている。ヲコバチ川口から水天宮の丘下を通る道筋には家並みが続く。海関所がある岬の頂上から屋根付きの信香常夜灯が海側に映っている。カツナ井川の上流に御留山があり、海岸沿いにアツトマリ、フレシュマ、ホントマリ、ホントマリ岬といった地名が記されている。
顕三は士族授産を目的にした岩橋徹輔社長の開進社に参加したが、同社解散後は道庁の役人になって郡長や札幌区長から支庁長などをして、33年に休職。北海紀行を増補改定した膨大な『北海誌料』をまとめた。
図2は「明治24年頃の小樽港」の題がある、史談会編『写真集小樽』の付録2。港町から色内、手宮にかけ埋立造成地が出来た。中央の丘が山田町、花園町。右側に入船、信香、勝納町。沖の船が左側の色内方面に集中していて、西高東低になった小樽港の中心の変遷を物語る ─ などと説明する。左下の字を見ると、「廿四年六月十五日印刷、山之上町渡辺覚平発行」とあるから大量発売された物だと分かる。題中に(筆者不詳)とあるが、出処が記入されていない。図中に“寿原陶器店の位置”“小間物店開業の位置”といった四角で囲った文字がある。これから推察すれば、寿原産業の年誌掲載図からの転載の可能性が大きい。
◆街づくりの古写真
水天宮の丘と現在小樽公園になっている山の間は、馬の背のように丘が連なり、オコバチ川と勝納川がその両側を山から海へ流れていた。このため、古くから開けていた信香方面と高島郡手宮地区とを結ぶルートが欠けていた。この馬の背になった丘を切り開いたのが、現在の公園通り。
写真1はこの工事中の風景。火山灰が堆積した丘を人力で切り崩すのは並たいていな仕事でない。丘上の人影と比べてみれば規模とその大変さがよく分かるだろう。写真2は水天宮を背にして公園方面を見た、大正末か昭和初期のころの公園通り風景だ。手前に天秤姿の物売りが行く、にぎやかな商店街になっている。
吉兵衛がまちつくりに乗り出す前の小樽が写真3。開拓使のお触れ書きなどを掲示する制札としゃれた洋風の街灯が立つ信香町の交差点付近。左の坂を登ると山の上町、右へ行くと有幌だった。こちらは明治12年撮影とはっきりしているが、写真4は後に魁陽亭が建つ高台を背にした入船河口付近。左側の崖下道は高波に洗われるので、山の上を越えていた。中央木柱に明治7年の文字があり、それ以後の撮影。
開拓使が明治4年に、道路整備を小樽商人に命じたという港・堺町辺りが写真5。勝納河口辺りに自然形成されたバラバラな家並みを繋ぐ道がまず必要だった。小樽の街づくりは海沿いの部落間を結ぶ道路をつくることから始まった。もう1枚の写真6は、明治初期の入船・山の上・港の3町の交差点。海岸に迫った山肌にへばりついたような住居が並ぶ。後に市営青果物卸売市場ができた場所あたりを写したものだそうだ。今は大型車両がうなりを上げて疾走する道道臨港線が走っている。
◆商人と仕込み制
幕末期の小樽で商人といえるのは、山田吉兵衛と岡田八十次ぐらい。それでも漁業の片手間仕事で、店舗を構えない出張販売程度だった。江州・越後に大阪・東京あたりからの行商人が入り、秋口に売れ残った商品を置いて帰り、翌春にやって来て精算していた。明治15年でこうした出張販売員が小樽地区で600人ほど、仕入総額で5~6,000円から1万円どまりだった、という数字が市史に出ている。
漁場の親方が商人から着業前に資材一切の融通を受け、代わりに産物はすべて一括委託販売して製品の売却後に精算する、という「仕込み制」が当時大半の漁場のしきたりだった。庶民金融は頼母子講か質屋ぐらい。兵蔵は安政5年に小樽の土蔵第1号を造り、吉兵衛は明治5年に鑑札を取って質屋商売をしている。