◆まず相場会所から
「実施売買ノ物価ヲ蒐集シ、其ノ価格ヲ審査公定、以テ商業ヲ通暢保護スル所ナリ。故ニ其ノ意ヲ体シ、価値商況等努メテ正実ヲ報道シ公益ヲ謀ルヲ旨トスベシ」 ─ 1880(明治13)年1月10日付けの開拓使布達第3号による『小樽相場会所条例』の冒頭、第1条緒言の第1節だ。小樽相場会所は開拓使本庁租税課が派出する小樽船改所に所属し、その管理下に置かれた。仕事は1週間の平均相場価格を会所前に掲示して、広く一般に商況を知らせることだった。目的は情報不足による商品価格の乱高下を防ぎ、物価の安定を図ること。
頭取は戸長の1人が兼務。月給8円の副頭取や5~6円の書記各2人に、取扱人10人などは地元商人から選んだ。人件費などは出港税による自賄い方式だった。事務は必ず船改所勤務の官員による指揮・監督を受け、簿冊類は検閲する。さらに「頭取以下の壇行するを許さず」といった規定まで盛られており、民間組織とは到底いえない、官製の相場会所で、民間の組織とはほど遠い存在だった。
翌年10月に有幌町で新築工事を始め、15年1月に1,590円かけた会所の建物が完成している。この相場会所が、どの程度機能し、効果を発揮したかについては、詳らかでない。5年後の18年8月に廃止され、仕事は船改所や船問屋などに引き継がれている。
◆興商会は北海道の商工団体第1号
政府の条例が出来たからといって、はいとすぐに会議所が誕生する筈がない。小樽には小樽の、それなりの前触れがあった。はじめは相場会所であり、開拓使が消滅した明治16年4月の興商会から21年の協同談話会、22年の農工商会、23年の小樽共商会と続く一連の地場商人らによる自主組織つくりが素早い会議所結成の素地になった。
毎週大阪と東京に電報で主な商品の値段を問い合わせて、その結果を広く仲間内に知らせよう、としたのが興商会の目的だった。商品値段の外に、本や新聞を取り寄せ公開・閲覧の便を図り、さらに取引上の紛争解決、商業上の質問にも応じる構えまで示した。
この興商会は北海道の商工団体第1号だった。会員は数10人もいたものの、数年で閉会したという。意気込みは良かったが、周囲の情勢はまだ熟していなかったと言うほかない。
協同談話会は商業に始まり、教育・衛生問題についても商人同士で話し合う場を作ろうとした。農工商会では札幌まで出かけて、実情視察を計画した。倉橋大介会頭、船樹忠郎副会頭と並んだが、2年足らずの24年5月に解散している。理由は何だったんだろう。
こうした各種団体の実体はよく分からないが、小樽を舞台に商売の役に立つ情報を共有しようとした、商人対象のサロン、勉強会のようなものを目指していたのか。今流にいえば「異業種同士の朝飯会で情報交換を」みたいな意図だったんだろうか。
◆会議所の前身が共商会
共商会には米穀・海産物・雑貨荒物といった各種の商人が70人も参加した。「天塩、北見、石狩、後志といった地域の産物はすべて小樽商人が取り扱っており、全道産額の7割にも達している。さらに本州からの米移入が増えているのに、公定市場が無いので、奸商がのさばっている」との創立要旨で気炎を上げ、速やかに各種取引所を設置するよう広く呼び掛けた。
この線に沿って、陸産商高橋直治は海産商板谷宮吉、金子元三郎らと小樽米穀鰊肥料取引所の設立を図る。20年公布の取引所条例に基ずき、直治が先頭になって26年10月に30人の連名で設置を申請。翌年5月に営業スタート。すぐに営業品目を塩・砂糖・油に国債・証券・諸種有価証券まで広げた=写真1。早くも翌年に小樽米穀外5品目取引所と改称している。
遠藤大三郎取締に三木七郎右衛門、塩田安蔵、高橋直治の3委員といったメンバーが共商会の役員に顔をそろえており、いずれもが会議所創立に深くかかわった人達だった。
◆創業報告
明治30年2月15日発行の小樽商業会議所月報第1号の冒頭は本小樽商工会議所記事。“創業報告”として「明治28年8月16日小樽商業会議所設立の件に関し左の諸氏旧共商会に参集し会議所の名称、位置、地域、創立費予算、会員の定数等を協議決定せり」とあり、14人の名が並ぶ。
続いて山田吉兵衛、高橋直治、田口梅太郎、西谷庄八、塩田安蔵の5人を設立委員に選び、8月22日と9月1日に、設立委員が集まって19人の設立発起人を推薦する。さらに9月9日には、発起人会で設立申請書について話し合っている─。
発起人は板谷宮吉をはじめ、林清一、早川両三、西谷庄八、堀井音次郎、渡辺兵四郎、田口梅太郎、田中武左衛門、高橋直治、田巻誠司、高野源之助、直江久兵衛、山田吉兵衛、町野清太郎、福長作太郎、遠藤又兵衛、新谷喜作、塩田安蔵、鈴木市次郎の19人だった。
事務所の位置が小樽郡湊町30番地、小樽・高島両郡内の36町の区域を対象にした、会員25人の小樽商業会議所の設立申請書が、板谷宮吉外17人の発起人の連名で農商務大臣子爵榎本武揚宛て9月12日付けで出された。設立認可は同年12月2日だった。
そして翌年4月に、月10円の家賃で借りた旧共商会の建物で開所式を催した。会議所設立に際しては、なにかと旧共商会が関わっていた。
◆北海道特例措置
商業会議所の前身ともいえる商法会議所は、明治11年3月に東京、次いで8月に大阪に設立されている。欧米との条約改正交渉のなかで民間世論というものの必要性を政府側が痛感したのがきっかけだった。
イギリス公使と交渉した伊藤博文内務卿が中心になって、渋沢栄一を初代会長にした東京商法会議所、5代友厚会長の大阪会議所を作った。政府は年額1,000円の補助金を出す。東京・大阪に続いて、当時の経済活動の活発度を反映し兵庫・岡山・下関・松山といった、関西地方の各地に広がり、25年末に18、26年までに28に達した。
地方3法、すなわち郡区町村編成法・地方税法・府県会規則が制定されたのが明治11年。この3法に基づいて東京府などの地方自治体が初めて組織された時に、地域商人の団体としての商法会議所も設立されている。
商法会議所は5年後に商工会と改められ、23年9月11日公布の商業会議所条例によって、独立組織とされて法人格を認められたものの、会議所議員資格は“所得税を収める商人”との規定があった。だから、経済的にはまだ“内地並み”になっていないと、所得税を免除されていた北海道では作りたくても作れなかった。
5年後の28年になって、商業の範囲と会社、取引所への選挙権の拡大と共に、本道の特例として議員の財産資格が所得税に代わり地方税3円以上に変更する、といった条例改正が行われた。
◆同業組合の数
13年に日高・浦河町荻伏に集団入植した、ピュリタン開拓会社の赤心社社長、鈴木清は神戸商法会議所の議員だった。新興港湾都市神戸の財界人が本道開拓に乗り出した理由の1つに、何かと共通点が多い小樽の商業発展へ深い関心を持ったことが挙げられる。
17年公布の同業組合準則による同業組合は、23年で道内48に達した。この内、16が函館、小樽に9で札幌が2つ。組合の数は地域経済の活発度をそのまま反映しており、会議所結成もその順になる。
函館は小樽の農商工会と同じ22年に商工会が結成され、28年9月に設立認可された商業会議所に引き継いで解散している。
◆第1回選挙
小樽商業会議所第1回選挙の告知状が小樽市史に掲載されている。“甲第1010号”と文書番号まで付いている小樽外六郡役所が発した正式文書であり、文面は次の通り=図1。
「来る六月三日小樽郡港町元小樽共商会跡に於て、小樽商業会議所初回会員選挙の義は本月当郡役所告示第二十五号の通り、来る六月三日執行の筈に付き、当日は午前九時より十一時迄に選挙投票相成べく、選挙規則被選挙人名簿並に投票用紙封筒共相添え此段及御通知候也 追て本文規則書等御領収の上は記名の下に捺印有之度候也 明治廿九年五月廿五日 小樽外六郡役所」
右下にある印章を読むと、昭和11年2月4日に角谷直二郎が小樽市史編纂室に寄贈したものと解る。宛名の角谷甚吉の関係者だろう。
◆創立議員の顔触れ
特例措置を盛った農商務省令が出たといっても、当時の小樽での有資格者は200人ほどだった。6月3日に行われた会員選挙の結果 ─ 当選して、農商務省に報告し、新聞にも公告したという創立議員25人の商売は、1次産業が3人、2次産業2人、残り20人が3次。典型的な商人の町だった状況を反映している。
(1)漁業=藤山要吉・山田吉兵衛・渡辺兵四郎
(2)工事請負=鈴木市次郎
醤油醸造=早川両三
(3)運輸=回漕 塩田安蔵
回船宿 渡辺三蔵
卸商=海産 町野清太郎・新谷喜作・広谷順吉・遠藤又兵衛
=水陸産 西川貞二郎・白鳥永作
=米穀荒物 板谷宮吉・林 清一・高橋直治
=雑貨荒物 井尻静蔵・三木七郎右衛門
=呉服太物 石橋彦三郎・榎幾太郎
=依託 田口梅太郎・田中武左衛門
小売=小間物 堀井音次郎・奥山清左衛門
=薬種 直江久兵衛
卸商のなかで、海産物と水陸産物の区別は具体的に何だったのか。依託商はどんな物を商ったのか。詳細に調べてみれば、多分、当時の小樽市民の生活を如実に物語るようなデータになりそうな期待感を持つ。
続いて6月17日に小樽郡長が会員を旧共商会に集め、初会合を開く。仮議長を互選すると渡辺兵四郎、田口梅太郎が得点同数になり、年長者の渡辺が議長席に着く。創立事務報告を田口が行い、書類・物件引継ぎ委員に田口と高橋直治・塩田安蔵の3人が選ばれ、議事に入って原案を可決する。さらに定款認可までの仮正副会頭に渡辺と田口を選んだうえで、定款認可申請書を道庁経由で農商務省に進逹した。
◆第1回総会
こうした手続きをした後の8月19日に第1回総会が開かれ、15人の会員が出席。仮会頭の渡辺が議長席に着いて、全員投票したら山田吉兵衛12票、渡辺1票となった。そこで山田が議長席に座って、副会頭選挙をした結果が渡辺12票、田口1票となり、山田吉兵衛会頭、渡辺兵四郎副会頭の体制に決定した後、議事に入る。
第1号議案・議事細則の審議は議案説明の文書が全員に行き渡らなかったので、一時休憩し熟読したのち再開。山田議長が「この場で一応通読しただけでは、なお不十分だ。今回は審議を中断し、改めて原案を印刷し配布。その後相当の熟慮時間を与えることにし、審議は次回に回そう」と提案するが ─ 。会場から「議事細則は最も至急を要するものだから、直ちに決議しよう」との発言があって、賛成者もあり議題とされた。
そこで書記長が朗読したのち、全会一致で原案通りに決定。さらに商業部10人、工業・理財・運輸各部5人とする2号議案も全員異議なく可決している。
◆総会が続く
第2回総会は9月3日に会議所議事室で開かれ、会員18人が出席。商業部会所属定員を10人とした前回の決定が定款に触れるので8人に変更するとの議案を賛成多数で決めた後、部会員の報告に続いて部長選挙をした。その結果、田口梅太郎・商業、鈴木市次郎・工業、高橋直治・理財、遠藤又兵衛・運輸の四部会長を選出し、榎本農商務大臣宛てに当選就任届けを出している。
続いて第3回総会が6日後の9日に開かれる。出席会員10人、29年度予算と賦課徴収規則、職員の給与規則が議題だったが、高橋直治委員長の調査委員会を設けて審査したすえ、修正可決した。
第4回が9月24日、第5回は12月21日と、初年度は矢継ぎ早に総会を重ねている状況に、発足当時の熱気に満ち緊張感みなぎる雰囲気を読み取れる。
◆会費納入は上々
さて、会議所は何をしようとしていたのか。条例の第4条は会議所の事務権限として次の7項目を挙げている。(1)商業の発達と衰退防止策を議定する(2)商業に関する法律・命令・諸条規や商業上の利害について行政官庁に具申する(3)商業実況や統計の報告(4)行政庁の諮問に答える(5)官設の営業所や仲立人組合など商業関係の建物管理(6)仲立人の資格・数・手数料の審査(7)商業上の紛争仲裁 ─ と、かなり具体的に決めていた。
創立費や会費の納入状況などを見ると、当時の小樽商人が会議所に寄せた期待がどれほどのものだったかが伺われそうだ。
創立費決算は94,668円。29年度の経費徴収は営業者212人で、1,488円20銭1厘(平均7円強)、会社・銀行が8,189円28銭1厘(平均24円弱)の計1,677円48銭2厘だった。告知状を暮れも押し迫った12月17日に出したのに、年明け早々の1月4日までに1,645円55銭9厘もの納入があった。「納期中の廃業もあるから、実際の未納は1、2に過ぎざる可し」と、嬉しそうに報告している。
◆札商の誕生
2度にわたる設立申請不許可のあと、札幌商業会議所がようやく発足した明治39年は、営業税改廃を巡って会議所と政府の対立が全国的に広がっていた。
40年11月3日、札幌の豊平館での天長節奉祝会後に会議所門前で撮った創立時の役員・議員の記念写真が、札幌商工会議所80年史(昭和63年刊)に載っている=写真2。
日清戦争後の軍備拡張のための財源に、民間から金を集めようとしたのが営業税の新設だった。商工業者の団体として会議所が反対するのは当然。小樽商工会議所も34年8月に協定税率廃止期成同盟会に加入した。これに対し、桂内閣は民間団体の政治運動はケシカランと42年7月に会議所法を改正し、経費の強制徴収権を会議所から奪った。
創立後間もない札幌会議所は「会議所機能を理解しない人も多くて滞納者が増えており、今回の改正で打撃を受ける」と深刻なのに比べ、小樽会議所は「従来から滞納処分は皆無なので、さしたる影響はないだろう」とゆとりがある答えだった。札幌に比べて、当時の小樽商人の気っ風と景気良さを示すエピソードだろう。
◆遠藤又兵衛邸が歴史的建造物
初代運輸部会長を勤めた遠藤又兵衛の住宅が、JR小樽駅の山側、富岡町1丁目の道路沿いに立正佼成会小樽教会として残り、市の保存対象歴史的建造物に指定されてる=写真3。
羽後国、今の秋田県に生まれ、16歳で松前商人に奉公。独立して行商中、静岡出身の海産商に認められて番頭として小樽に買い付けに来たのが始まり。明治12年に小樽に定住し、海産物商一筋に財を成す。35年に自宅として建てた家は、和風を基軸に洋風も一部に取り入れた。死後、北炭社員寮にもなった。住吉神社の高く長い石段を1人で寄進した。
◆郵便は情報
創設2年目に入った32年2月10日に開かれた第2回総会は、開所式を3月に延期することのほか、4号・小樽東京間郵便物速達、5号・小樽電話交換局設置を巡る両建議議案を可決し、市街鉄道撤去と小樽銭函間国道開設の両調査委員会の委員選挙をしている。
市街鉄道問題は市街地を横切る手宮線に、函館から北上してくる函樽鉄道をどう接続するかという方法であり、国道開設は1日も早く札樽を結ぶ道路が欲しいという小樽商人の要求を反映していた。こうした広い住民からの要望をまとめ各方面に働きかけることが、まず会議所の仕事だった。
だから、当初から商売に不可欠な情報を的確に迅速に手に入れるのに最も必要だった郵便について、会議所はいろいろと行動した。速達郵便は、1日1便の汽車汽船による東京からの郵便では不便極まる。少なくとも1日2便にして欲しい ─ という。
小樽郵便電信局が28年に受けた電信数は全国700余局のうち第6位、発数で7位。電信料が11位になっている。10余年前は一漁村だったが、今や5万を超す一大商港になった。電話加入者は300余に達したので、1日も早く電話交換局を開設して下さい ─ という内容だった。
このころの小樽郵便電信局は木造2階建て、角巻きの女性がつつらの下がる局舎前を肩をすくめて歩む姿に明治30年当時の風情を知る=写真4。この郵便電信局が郵便局になったのが36年4月。翌37年の大火で焼失し、40年1月に新築、さらに42年に増築した。色内大通りと浅草通りの交差点という一等地に位置し、市民からは“本局”と呼ばれて親しまれた=写真5。
◆会議所と火事
会議所の建物はよく火事に遭った。明治38年の大晦日に小樽造船所からの大火で、共商会時代から使っていた港町30番地の建物は類焼した。正月を控え、事務所は取り敢えず近くの三木七郎右衛門宅跡に置く。
公共的な性格を持つから、公有地を借りて本格的な自前の建物を新築しようということになって、小樽区に借地を交渉する。区長から小樽公園内に事務所新築用地を無償貸与する、との返事が半年後に届く。札商が旧札幌商業倶楽部の建物を使って設立されたのと丁度同じ時期だった。
現在の市水道局がある場所に、小樽商業会議所の建物が新築され、港町の仮事務所から引っ越したのが40年6月19日。10月9日の新築落成式に、石川啄木が創刊されたばかりの北門新報社代表として出席し、「何となく面白い」と日記に書いている。
明治44年に発行された『東宮行啓写真帖』に完成したばかりの小樽商業会議所が載っている=写真6。玄関上にバルコニーがあり、木造2階建て。堂々としたたたずまいで、玄関脇に植えられた松がまだ貧弱で、建物に似合わない。
◆貯金支局に建物を貸す
1916(大正5)年になって、貯金支局を小樽に誘致する条件として支局に建物を貸し、南浜町に一時移転する。2年後に貯金支局の建物が完成して元の市役所内に戻ったが、翌8年の2月15日に火事で全焼する。
堺町の雑穀商業組合連合会の3階に間借りしたものの、5月5日の端午の節句に色内町の基水堂印刷所に移転。翌9年10月には小樽共同運輸の倉庫跡に移り、13年3月に色内町の交差点に面した三菱銀行の4階と、転々と移動する。
この三菱銀行の建物は1895(明治28)年の創立時に建てられた。階上には三菱鉱業が入っていたが、現在は中央バスの第2ビルとして、同社の小樽事業部のほか、いくつかの関連企業などが入っている。交差点に面した側の1階壁に円柱が並び、玄関入り口が狭くて、窓に頑丈な鉄格子が付いているのが特徴。歴史的建造物に指定されている=写真7。
現在の色内町6丁目31番地の建物を新築したのが1933(昭和8)年。10月11日に三菱銀行の間借り先から移転した。13代杉江仙次郎会頭時代になっていた。玄関両脇に時代を伺わせる街灯が並ぶ=写真8。
1984年夏、小樽港の埠頭を会場に6月10日から8月26日まで北海道新聞などと共催した84年小樽博覧会には、余市支局から支局員ともども応援に出てきたので、ひとしお感慨深い思いがある。会場中心の巨大な貝殻からの噴水には度肝を抜かれた=写真9。