小樽の誕生から始まった『小樽商工会議所100年史』の締めくくりは、やはり“小樽の再生”、つまり「おたるルネサンス」を目指して次なる世紀に、わが会議所が果たすべき役割は?─になる。

◆気に食わない斜陽のレッテル

 “斜陽”という言葉は使いたくない、というのが年来の思いだった。斜陽の文字に含まれる、半ば諦めたように運命として自滅の道を認めたみたいな姿勢が気に入らない。太宰の小説の題名になって、人々の口に上った戦後の一時期に流行した言葉で、既に死語になっている。戦後の混乱期のなかで、新しい時代の流れに乗れなかった旧華族階級の退廃的な生活を表象した一時的な流行語だった。それなのに、東京から転勤してきたばかりの当時の小樽で、この言葉がなにかといえば人々の口から聞かれていた。
 手元に慶応義塾大学高橋潤二郎助教授が書いた『斜陽都市』という本がある。昭和46年に発行された光文社のカッパビジネスだ。全国600の都市を成長都市か斜陽都市かと診断し区分けした、当時のベストセラー。この本の冒頭に「都市が斜陽化する」とはどういうことか─と題し、「戦前のニシン景気はもちろんのこと戦後の石炭景気も、はるか昔の夢と消え果ててしまった」といった描写で、小樽が登場する。
 「─昔の小樽を知っている人にとって、いまの小樽は「小樽」ではない。そのあまりに閑散とした様に、ただ嘆息あるのみだろう」。現代都市において金融活動はなによりまず、都市の経済活動の大きさをはかるバロメーターである。金融の中心的存在である銀行が未練げもなく撤収する─これは現代都市における斜陽化の象徴であり、都市にとってこれ以上の悲劇はない─と続く。
 ここにあるのは、日本の斜陽都市の典型としての小樽でしかない。確かに戦後の小樽は全国的に見ても“斜陽”としかいえないような状況だったかもしれない。しかし、一部の学者が貼った斜陽都市のレッテルを、住民自らが抵抗感もなく全面的に肯定しているかのような姿が垣間見れることにいらだちを感じていた。輝かしい過去の一時期と比較して、はかばかしくない現状に諦めてしまっているのではないか─と。
 過去の栄光といったものにはとかく無関心だった私にとっての小樽は、生まれ育った東京の下町、その後暮らした十勝管内本別町、後志管内余市町などと比べても、魅力ある街だった。現在もついのすみかと決めた札幌にはない、暮らしやすい、心のやすらぎを持つ街であると自信をもって語れる。

◆戦後の小樽

 国勢調査人口のピークは昭和35年の19万8,511。30年の住民基本台帳の登録数が19万270で、同じ年の国勢調査は18万8,448人だった。つまり20万には達したことがない。38年策定の新産業都市構想が45年で25万2,000人を予想しているのに、60年国調で17万2,000と逆に減っていることなどが自信喪失の一因ではないか。
 戦後の小樽はすべてダメみたいな幻想がはびこっている。小樽だけを見ていればそれなりの成長をしているのだが、ほかが高度成長しているので比較すると落ち込んで見えるに過ぎない。試みに昭和35年と50年の数字を比べる。工業出荷高は270億円から1,200億円と4.4倍も増えているが、この間に全道規模が8.6倍もの成長ぶりだったから全道のシェアは6.9%から3.8%と半分になっている。商業販売額は小樽が2.7倍の伸びに対し全道は11.2倍だったので、シェアは11.2%から2.7%と4分の1、卸売となると13.9%から2.5%、商業活動を反映する手形交換額も12.2%が2.7%に、と無惨としか言えない数字になってしまっている=表1

昭和35年50年
北海道小樽全道比(%)北海道小樽全道比(%)
国調人口5,0391993.95,3381843.5
工業出荷額372276.93,2001203.8
商業販売額1,03811611.211,6483172.7
卸販売額72810113.97,9012012.5
手形交換額1,67620512.214,2073772.7
表1・漸増なれどシェア低下
(小樽市経済指標 単位は千人・十億円)

 小樽商人が最も得意とする卸売販売額で札幌に追い抜かれたのは国家的な戦時統制下で仕方なかったとしても、戦後しばらく保持していた2位の座を37年に旭川に抜かれ、43年には函館にも抜かれて4位と、道内での中心商業都市の地位を戦後になってから次々と譲っているのは何故か。 

◆最後の小樽商人

 1年半前に創刊したばかりという「週刊小樽」が43年11月に刊行した『小樽を築く人々』が“戦後彗星のように現れて斜陽ムードをはねのけるチャンピオン役”として山本勉通信電設社長を紹介している。老舗の何代目でもなければ、官庁から野に下ったネームバリューのあった人でもない。まったくの無名の新人ながら1代で今日をなした行動の人だ─と言う。
 1周忌の93年9月に『回想回帰』と題する追悼書を山本家が刊行した。39年の地元誌『月刊おたる』に載った一文に「過去の小樽は初恋のように甘く飾られている。乙女の美しさが永遠のものでないように、栄華の市も永遠には栄えないであろう。それにしても最近の小樽でのあいつぐ銀行の閉鎖、商社の引揚、手宮線の撤去など老化ぶりは止まるところを知らない」とある。
 福井県から恵庭に入り、さらに浜益に移った半農半漁家の三男。50歳で脳血栓に倒れ3年床についた父が亡くなった後、叔父に引き取られ岩見沢で夜間中学へ。呉服店奉公5年の間に増毛沖で遭難しかかって、ほうほうの体で休んだ場所が千代志別の番屋。この漁場の主が後に小樽で深く関係する第14代会頭の木村円吉だったのも何かの因縁だろう。
 徴兵検査は甲種合格で、召集されたがすぐに戻って小樽へ。新富町の竹内呉服店に兵役をはさんで7年。昭和14年に召集されたが、月寒連隊に始まり、中国、樺太と回って17年に除隊となった。海外の戦況がはかばかしくなくなった時期には小樽で警防団の部長や翼壮副団長を勤めていたのが人生のツキ始め。
 戦後の混乱期に戦中の人脈が物を言う。警防団長から、戦時中は丸太筏を樺太から小樽まで曳くのに使っていた動力船を借り、ニシンやホッケなどの海産物を離島や浜益から運ぶ。食料不足の時代だったから面白いほど儲かった。この時の資金を元手に海産物商社を設立したのが21年7月。“私の会社第1号”だった。

◆時の運、人の運

 海産物を仕入れに天売島に出掛けた時、1杯飲み屋で福の神に出会った。「海底の鉄屑を買わんかね」と声を掛けられた。先細り気味のニシンやホッケが取れなくなったらどうしようかと考えていた時だったから、大阪のサルベージ会社の親方だという男の言い値で酒の勢いもあって即断した。23年4月になっていた。幸福の女神には前髪だけで、後ろ髪は無いそうだ。
 樺太からの引き揚げ途中で日本海に沈んだ貨物船小笠原丸だったが、店の客だった漁協の幹部が仲間の漁師とカギで引上げてくれた。トン5,000円で買ったら、25年6月に朝鮮戦争が始まり金ヘン景気が到来。鉄屑がトン2、3万円にも値上がりしたうえ、積み荷の紙が暴騰した。50万円の元手が800万円になって、これが本業になった通信電設会社の設立資金になる。
 逓信省が郵政、電気通信の両省に分割されたのが24年。電気通信省が電々公社になり今のNTTに変わる。花園郵便局長の息子が始めたものの、農村電化に手を出して失敗し負債を負った公社下請け会社立て直しの口が掛かる。この時の道電気通信局長は浜益で父が仲人をした人、部下の契約課長が軍隊時代の同期だったという縁に加えて、この会社はなんといっても人材が豊富だったそうだ。
 29年にまず常務で入り、翌年に通信電設と社名を変更して社長に。以後、左前になった会社の立て直しを図る企業サルベージを本領にした山本グループの中心企業に育った。「20社頼まれてその7~8割は立ち直った。“最後の小樽商人”と呼ばれるのは名誉と思う」と言っていた。
 札幌市手稲区の医療法人「勉仁会」中垣病院、小樽市新光町の特別社会福祉法人「小樽北勉会」の望海荘開設に時の厚生大臣園田直や自民党幹部の江崎真澄を引っ張り出すといった“政治的な演出”をする。浜益村長が助役から選挙に出て落選した時は、グループ子会社社長の椅子を用意すると面倒見も良い。

◆戦後派代表

 小樽を代表する国際ホテルと北海ホテルと同時に、第3セクターの株式会社水族館の会長もした。戦前派の松川嘉太郎に対し、戦後派代表が山本勉と言われ、頼まれると嫌と言えない世話好き。「ここ数年来、小樽の町でなにかあるとき、必ずヤマモトベンさんの名が出てくる」と『小樽を築く人々』にある。“小樽モンロー主義”を標榜、中央バス乗っ取りを阻止した松川のもとに人が集まり「松川詣で」と評されたころ、「山本参り」という言葉も花園界隈でささやかれた。
 衆議院選挙で松川が箕輪登を支援すれば、山本は椎熊2世を応援した。地元選出の保守候補の票数は経済界でも格好の話題になった。山本勉、木村円吉、松川嘉太郎の経済界の実力者三人が市内のパーティーで歓談中=写真1。日本海ルートのフェリーに小樽が港湾都市の未来を期待した時分のスナップだ。話題は何だろうか。

写真1・左から山本勉、木村円吉、松川嘉太郎

 この時代の小樽を語る時に欠かせないのが吉村伝次郎だろう。木村円吉と小樽中学の同期生で、寿原外吉会頭時代の小樽商工会議所副会頭をした三馬ゴム社長。早稲田大を卒業して三馬ゴム仙台工場に入ったのが昭和八年。戦後間もない24年に社長になり、自社製品のゴム長の売込みも兼ねて小樽輸出入協組理事長になり、対岸貿易に活路を見出だそうとしていたが─。
 戦前から小樽工業のチャンピオンだったゴム製品工場は、大戦終了後の世界状況のなかで衰退の一途をたどった。それは植民地からの原材料輸入問題でなく、技術革新であり生活様式の変化が原因という、一企業ではどうしようもない世界の流れだった。

◆小樽ならではの文化財

 小樽商工会議所の創立100周年記念式典が催された小樽市民センターを会場に、市と市教委が「手宮洞窟シンポジュウム」を開いた。現役考古学者の第1人者である佐原真国立歴史民俗博物館副館長を招き、「波濤を越えた交流─手宮洞窟と北東アジア」をテーマにした小樽130周年記念事業。道内外の研究者を集めた2日間は、改めて古代文字として早くから市民に親しまれた洞窟彫刻の価値を再認識させるはずだった。
 小樽内場所が村並になった翌年、1866年に発見されていた手宮洞窟壁面の彫刻は“手宮古代文字”として知られ、アムール川流域など北東アジア地域との交流を語る貴重な史料。明治初期から多くの学者が研究対象に取り上げている。偽者説も出ていたが、隣の余市町フゴッペで同じ種類の洞窟彫刻が発見された。
 フゴッペは発見後まもなく日本初というカプセル方式による保存施設が完成しているのに、小樽はようやく95年になって同じ方式の建物ができたところだ。運河を引き合いに出すまでもなく、小樽には小樽ならではの貴重な歴史的文化財が多い。地球にやさしくといった考え方が世界的な主流になっている今日、こうした文化財を活用した町づくりが商売としても成り立つ。
 昭和51年に完成した駅前地区市街地再開発事業による第2ビル一階の公共プラザの壁面に、手宮とフゴッペの奇怪な文様がお目見えした=写真2。構想1年、地元芸術家の小樽焼き陶板による作品だ。手宮古代文字は実物の2倍、フゴッペは200種の彫刻から「現代感覚にも訴えるもの」15を選び10倍に拡大したという。定評ある小樽焼きの渋い光沢とボリュウム感が特徴。

写真2・駅前再開発ビルの通路に洞窟彫刻

◆商大軸にした文化都市

 明治30年に小樽商業会議所が平田法制局長官を招いた歓迎会の席上で、会議所議員の弁護士小町谷純が「外国との貿易振興策として、小樽に国立高等商業学校を」と述べたテーブルスピーチが小樽高商誘致のきっかけになったという。東京、神戸、長崎、山口に次ぐ全国5番目の開設に至るまでの経過は、教育にかけた当時の小樽商人の期待を物語る。
 人口九万の小樽区が高等商業学校設置を正式に政府に要望したのが32年、全国に高商新設を文部省が決めたのは39年だから、ずいぶん早い。40年5月に函館と競り合って小樽設置と決まるまでに、地元選出の衆議を動かしての事前交渉など永い努力が必要だった。小樽区会は10,000坪の土地と50,000円を寄付するといち早く決めていたが、小樽高商誘致の条件には校舎敷地の無料提供のほかに建築費37万円のうち20万円の地元負担が入っていた。
 現在の校舎が建つ場所に木村円吉、金子元三郎、河原直孝、青木乙松、白鳥永作の小樽商人5人と本店小樽の道商業銀行所有地を加えた12,000坪(4ヘクタール)をまとめたが、問題は当時の小樽区年間予算額に近い負担金が大変だった。道庁が50,000円を負担してくれることになり、残りの15万円は区民からの寄付と区債で賄う。あまりの厳しい制約から民間業者の希望が無くて、整地から建築まで区の直轄工事になったそうだ。結果的にいえば、身分不相応な国立高商だったのかもしれない。
 44年5月に開校、商人のための実務教育に徹し、語学の徹底が小樽高商の伝統になった。しかし、戦中の経済専門学校から戦後商科大学に変わった樽商大は、小樽商人が期待したような関係を維持できなかったようだ。市の各種審議会メンバーに加茂儀一、伊藤森右衛門学長らが加わった時期もあったが、経済面での落ち込みが話題になるにつれ研究対象にする魅力も薄れる。
 神戸商大と神戸市との関係はよく知らないが、樽商大の頭脳は小樽の財産であることだけは確かだ。商大側にも地元との連携を深めようとする気運が濃くなっているようだ。21世紀は頭脳で勝負する世界だ。商人同士の情報交流の場としての会議所は、最高学府の知恵を行政に注入する責務を負っているといえよう。

(終り)