木村円吉
◆『雪の駆逐艦』
昭和40年から3期8年の第14代会頭をした木村円吉の自伝『雪の駆逐艦』が、娘の三宅喜久子の手で刊行されたのは死後間もない93年11月。タイトルは昭和7年1月の北海タイムスに載った「多士済々たる中に先づ雪の駆逐艦木村顕三(明大)がある」という、スキー耐久レース評記事の1節から採った。
第1部は第1章「新日本海フェリー」に始まり、潮まつり、小樽運河、北一硝子と会頭時代の話題が続く。第2部が木村家地所内の円吉山でのスキー少年時代、「毎日スキーをやっているが、勉強している姿を見たことがない。柄に合った明大を選べ」と父にいわれたという青春期─。豊かな小樽商人の家庭に育った、恵まれた生活が語られる。
戦後日本の“財界の陰の実力者”といわれた菅原通済の次男春雄の伝手で、ヤミ将軍の異名を付けられる以前の田中角栄と秘書早坂茂三に会って、日本海沿岸を結ぶフェリー就航にこぎ着けるまでの話。潮まつり開始に当たって、玉光堂の八木社長の世話で三波春夫に音頭のレコードを吹き込んでもらうまでの苦心談などが語られ、当時を知る人には“古き善き日”の思い出になる。
◆6代目円吉
昭和16年に5代目円吉が71歳で亡くなり、四男だった顕三が32歳で跡を継いだ。「名前を変えるか迷ったが、帳簿でも商店の印でもそのまま使える便利さもあって」襲名した。不都合なのは、ときおり先代と間違えられ、100歳過ぎの老人と勘違いされることぐらいだという。板谷宮吉など、小樽商人には襲名のケースが目立つようだ。
木村家が財を成した元は日本海を北上したニシンの群来である。青森県東津軽郡大泊村から渡道したのが祖父に当たる4代目。増毛で船大工をし、資金を貯めて和船を手に入れる。北海道の日本海岸を見て回り、まだ和人が入っていない浜益村群別に目を付けた。ヤマシメ〈乂の屋号でニシン建網を入れたのが、江戸から明治に変わるころ。場所請負人が漁場持に変わり、松前商人の独占体制が新政府の下で崩れ去る絶好な時期だった。
4代目は青森を春に立ち、秋にニシンを終えると青森に帰るという出稼ぎ体制に暮れた。留萌管内小平町鬼鹿の海岸に豪壮な、国重要文化財に指定された旧花田家番屋を、明治38年に建てた花田家の三男から木村家に婿入りした先代の5代目が、群別に定着した。
◆本道最大の網元
明治27年の北海道実業家人名録では水産業になっているが、30年7月の税額による小樽財産家調べだと板谷宮吉に次ぎ、円吉が金銭貸付け40万8,740円、倉庫73,986円。大正9年に道庁が50町歩以上の大地主を調査した時、小樽には山田吉兵衛ら六人いたうちの筆頭が木村円吉だった。
本業の水産業では最終的に22ケ統の網元になった。道内ニシン漁獲高50万石の1割、50,000石を取る最大の網元であり、450人の漁夫を使っていたそうだ。水産業から倉庫専業に転じたのが6代目。相続したころは不在漁師になると漁場を取り上げられるので、ニシン時期の3、4月だけ浜益の番屋に暮らした。
戦後の30年、円吉の網にだけ時ならぬニシンの大群が入り、小樽で入札したら500万円で売れたが、これが日本海岸での群来の最後。自前で生産していたニシン粕を貯蔵するのが目的だった石造倉庫を元手に、広く海産物から倉庫、荒物も手掛け、営業倉庫業者として堺町海岸に1号から9号倉庫まで次々にカネシメの石造倉庫が立ち並んだ。個人営業の木村倉庫店主から、木村倉庫株式会社社長に収まったのが昭和36年。
◆運河の再生
石造倉庫が並ぶ小樽運河が、観光の目玉になって久しい。四季を問わず、大型観光バスが数珠つなぎに並ぶ北一硝子は運河観光の一大ポイントだ。ヤングギャルが押し寄せる北一硝子の3号館は、木村倉庫の3号館でもあった=写真6。円吉自伝のなかに、開設当初の北一硝子3号館を描いた山本真一の作品がある=写真7。内部に入ると、木骨に薄い石の板を貼った石造倉庫の構造がよく見える=写真8。海岸線に面し、直接トロッコで荷物を倉庫に運び込んだレールが入口付近に残る。1次大戦時の豆ブームの時は北浜地区にあった選別工場から輸出用の豆を運ぶためにも使われたと、レール跡は小樽の古き良き時代を物語っている=写真9。
◆ニシンで土地を買う
懐手をして待っていればニシンが向こうからやって来た時代に、豪奢な建物に贅を尽したようなニシン御殿のお大尽は、ニシンと共に姿を消した。アブク銭を消資財に使って見栄を張るようなことはせず、資本財としての土地に投資したような商人だけが、土地神話が続いた戦後日本に生き残った。
小樽港の南部、築港地区を眼下にする平磯岬の上に立つ銀鱗荘は祝津の鰊御殿と同様、市外から移築されている。日和山灯台や水族館がある祝津の鰊御殿は北炭が創立70周年記念事業として、1956年に積丹半島西岸の神恵内村から移して市に寄付した=写真10。
5代目は岩見沢・美唄・由仁・長沼・浜益などに450町歩の農地を買い、毎年秋になると6,000俵にも達する小作米が自前の倉庫に運び込まれた。農地解放を免れた山林と宅地が、戦後も木村倉庫の財産として残る。
木村円吉らしい、戦中戦後におけるひとつの体験談─敗戦直前、砂川にあった持山300町歩に地元農委が入植者を入れて開拓しようとしたのを断り、自力で植林したうえ雑草を食べさせるため綿羊を入れたら、見事な模範林になった。30年ごろに売ったら3,000万円になったという。混乱期のなかでも、したたかに生きた小樽商人の面目躍如といったところだろう。
色内町1丁目のメーン道路に面して堂々としたたたずまいを見せる日銀支店の土地も木村所有地で、天下の日銀も明治・大正・昭和と永い間借地で営業していた。もっとも戦後になっての会頭時代に、支店長から懇望されてとうとう手離したという。