◆小樽港修築意見書
小樽商業会議所が調査委員会を設け、当時の先進諸国における港湾施設状況を調査した上、さらに国内を巡回して主要港湾と比べて小樽港の将来について報告書をまとめた。この「小樽港修築意見書」の内容を詳細に検討するには至らなかったが、観光資源保護財団が昭和54年に出した報告書は「当時とすればかなり質が高いものだった」と評価している。
都市機能としては既に邪魔者だ、と運河を埋立てその上に道路を造ろうとした行政側に対して、文化遺産だと市民レベルでの保存運動が10年以上も反対し続けた“運河戦争”は、今となってみれば何だったんだろうか。歴史への評価を現在が軽々に判断してはならない─。戦後50年に当たっての戦争責任宣言に対して、保守系の人達が反対する論拠にもなっている。
川を埋め道路にする方式は小樽では珍しくなかった。「大正期の入船通」という説明が付いて『北海道の開拓と建築』(道建築士会編)に載る写真は、北大建築史研究室所蔵=写真1。同じ写真が史談会編『写真集小樽』に「暗渠以前の入船川」としてある。中央の建物が上勢商店、右が中越銀行、左は秋野薬店。昭和初期に暗渠工事が行われ、川の両側の柳は取り払われ現在の舗装道路に変わったという。
秋野薬店の建物は1892(明治25)年に角江薬房として建てられたもので、33年に秋野に移り今は山形薬業小樽支店になって、入船通りが市道山の上線と出会う堺町ロータリーの角で健在だ。
◆繰り返す運河論争
運河は誕生する時も論争が10年以上も続き、政争小樽の名が有名になったという経緯があった。明治22年から25年にかけて、港の沿岸整備が実施された。大規模な埋立てと舟入澗が造られたが、冬の荒波で壊されてしまい、どうしても防波堤が欲しいとなる。
琵琶湖疎水の田辺朔郎に防波堤工事責任者の広井勇らが小樽港調査委員になって、明治32年に堺町の立岩から北半分の埋立てと築港プランをまとめ申請書も出した。この時から大正3年の着工までの16年間は(1)事業主体(2)運河か埠頭か(3)促進か延期か─でもめた。
運河工事が始まる以前の小樽港の様子は、明治44年発行の小樽区写真帖で見ることができる。小樽倉庫から大家、岡田と石造倉庫が続く浜町海岸風景が写真2。沖の船からの荷物は、石垣に梯子をかけて道路に待つ馬車まで人の背で運んだ。この場面の右側は海。
色内舟入澗の海岸に沿って、税関支署や移民休憩所などの建物が並んでいた=写真3。右側の洋館は桟橋ビヤホールで、旅人たちの憩いの場になっていた。税関支署はここから運河工事が進むにつれて第3区埋立て地の舟入澗に移った。
◆16年目に運河着工
大正3年3月、遂に“運河式で建設促進”派が多数決で押し切って着工する。埋立て予定地に地元から切り出した石の垣で囲った中に、港内からすくい採った土砂を入れて埋める方法だった。潜水服の石工が石組をするなど人力だけが頼りだから、途中設計変更もあって6年計画が9年かかった。
海岸沿いに建つ倉庫群の前浜を埋立て、運河の幅だけ海面を残し沖側に出島を造る工事が人海戦術で進む中で、1日と休む間もなく艀荷役が続いた=写真4。
明治期の石造倉庫群が並ぶ海岸線はそのままに新しく沖に島を造ったから、運河の両岸は時代を異にする建物群が対照的なたたずまいを見せた。運河工事中に右側の北海製缶の倉庫、工場、社屋などが完成する。小樽港に浮かぶ軍艦みたいな偉観だ、と持て囃された。若槻礼次郎内務大臣を迎えた運河落成式は、できたばかりの北海製缶社屋で催されている=写真5。
幅40メートル、延長1,324メートル、水深2.4メートルの運河が完成した大正13年が小樽港の最盛期になった。港湾荷役は世界の趨勢が機械を使う埠頭式に移っていた。