モンロー主義

◆事業統制の証明書

 昭和19年1月8日付け證明願なるものが、59年10月刊行の『北海道中央バス四十年史』に載っている。願出人は小樽市の杉江仙次郎、「御庁ノ指導ニ依リ事業統制ノ必要上設立セルモノナルコト」を証明相成りたくが願意。杉江の肩書きは北海道中央乗合自動車株式会社社長である=図1

図1・證明書

 同月12日付けで「右相違ナキコトヲ証明」したのが佐藤栄作運輸通信省自動車局長。戦後になって政界に転じ、ワンマン吉田茂の後継者とされて戦後政界の長期政権を保持した。当時の首相官邸での雄姿を、駆け出しの首相番記者をした若き日の思い出として一際鮮明な印象を持っている。
 佐藤の肩書きが鉄道省監理局長の活字を墨で消している事は、企業の統合を政府権力で推し進めた敗戦間近かの緊急事態を物語っている。戦時体制強化策として民間企業だけでなく、中央官庁も簡素化が進められた。鉄道省と逓信省がまとめられて運輸通信省になり、その新しい書類も整なわない内に進められた企業統合だった。

◆北海海運局も誕生

 北海海運局の成立もこの時期の似たような事情を物語る。現在中央バス本社があるのは元道銀の建物。敗戦直前の20年5月に創設された運輸省北海海運局が置かれていた。海運局誕生までのめまぐるわしい変化も、中央バスが誕生した当時の時代背景をよく示している。中央バス本社の道路筋向かいにある日銀支店前の木立ちの間から眺めると、ここが北海道の金融中心地だったことを改めて教えられる=写真6

写真6・日銀支店前から旧道銀本店だった中央バス本社

 明治18年の函館船舶検査所が翌年司検所となり、31年に小樽船舶司検支所ができた。翌年函館海事局小樽海務署になり、43年の札幌逓信管理局函館海事部の小樽出張所から、昭和16年の函館海務局小樽出張所までは、東京の中央官庁側から見た海運のウエートでは函館優位だったことが判る。
 18年11月に鉄道省と逓信省が合併して運輸通信省が誕生した際に、海運総局小樽本局に格上げされている。この時に北海道の中心は小樽だとされ、まもなく小樽海運局になったのも、米ソを対象に入れた樺太など北方対策の戦略が主眼だった。敗戦直前に運輸と通信を分離して運輸省ができた時、北海海運局になったままで戦後を迎えている。

◆中央乗合自動車スタート

 道央21社の統合による、資本金8億円の中央乗合自動車会社が設立されたのは18年3月。鉄道省が地方長官会議で全国のバス事業統合再編方針を説明したのが、ちょうど1年前の17年3月だった。交通圏ごとに会社を統合せよ、との閣議決定は有無をいわせぬ戦時下の政府命令だった。18年8月、全国のバスを藤鼠・藍鼠・国防の3色に塗り替えれ、との政府通達が出ている。
 新会社は小樽に本社、札幌と小樽に支社を置き、社長は小樽市街自動車の杉江、札樽自動車合資の加藤幸吉が専務に。札幌観江バス(村田不二三社長)、小樽定山渓自動車道(地崎宇三郎社長)、定山渓鉄道(金子元三郎社長)、滝川バス(中島長藏社長)など石狩・後志・胆振・空知の道央圏各社から、建物・バスといった現物と各社従業員の出資を受けスタ-トした=表4

名称所在地首脳会社設立・事業内容・路線など
小樽市街
自動車
小樽杉江仙次郎
社長
新谷専太郎
専務
T10 最上吉蔵社長で
稲穂4─花園第二大通、若松町を運行。
T12.4 小樽乗合自動車合資を合併、岩田三平社長。
S6 に設立され、小樽─余市の路線を持つ
木村松太郎社長の小樽郊外自動車を吸収合併。
札樽
自動車合資
札幌加藤幸吉
代表社員
T14 札幌乗合馬車自動車合資が月寒─札幌、
15 加藤幸吉・木上亀蔵が札幌自動車合資、
札幌駅中心の札幌乗合自動車を買収。
S3 中田鶴吉出資で事業拡大、種田富太郎の
古平─余別買収し、余市─余別など。
札幌
観江バス
札幌村田不二三
社長
M43.6 久保兵太郎代表の札幌軌道が
茨戸─札幌を冬に馬橇で連絡したのが始まり。
水郷茨戸に遊覧船経営。
小樽定山渓
自動車道
小樽地崎宇三郎
社長
M7.10 潮見台─朝里─定山渓に
有料道路を作りバス運行。
S24 札幌市・豊平町と整備し道道に。
定山渓鉄道札幌金子元三郎
社長
T7 白石駅─定山渓に鉄道。
札幌駅─豊平─定山渓─豊平峡のバス路線を持つ。
S6.8 定山渓自動車合資を買収。
北海道鉄道札幌足立正
社長
S5 篠津村梅村兼雄が江別駅─新篠津村にバス。
S12 東田太郎市・山崎喜三郎が買収。
厚田
自動車合名
厚田宮本正美
代表社員
S15 石狩町堀江寅吉・厚田村竹本和太郎が設立した
バス事業を宮本大助・正美らが買収。
石狩八幡─太美、厚田村にバス運行。
後志自動車札幌田井直治
社長
S5 ニセコ藤田秀太郎が昆布駅─宮川温泉にバス。
翌年札幌田井が昆布温泉─狩太駅、
蘭越駅─湯別駅バス会社。
余市赤井川
自動車合資
赤井川高橋千里
代表社員
S16 余市駅─赤井川─銀山駅にバス。
郵便逓送も。
余市
臨港バス
余市有末三郎
社長
久留宮新十郎
専務
S8.5 余市臨港軌道が
余市駅─浜中に軌道ガソリンカー運行。
S15.7 有末余市町長ら余市駅─浜中─水試にバス。
滝川バス滝川中島長蔵
社長
中島秀雄
専務
T15.9 滝川自動車運輸がS7滝川バスに。
S16 新十津川の中島秀雄が買収。
佐藤留吉月形T14 月形─岩見沢、峰延にバス。
S3 アサヒ自動車商会が経営、
16 佐藤が独立し、バス運行を開始。
美唄自動車美唄新谷専太郎
社長
S2.5 野村甚太郎が美唄駅─月形、三井美唄にバス。
S11.6 小樽市街自動車に援助を求めて、
社長・専務・常務池田千治専務の派遣を受ける。
前田喜三九長沼M39.12 長沼─由仁に馬橇、T11.7 夏バス。
S3 長沼─栗山で郵便逓送も。
夕張バス夕張新谷専太郎
社長
S5 夕張乗合自動車が夕張駅─鹿谷にバス、
S11 小樽市街自動車に資金援助を受け事業拡大。
芦別合同
自動車合資
芦別川北惣吉
代表社員
S3 芦別の多田倍三がサカエ自動車商会を
つくり芦別駅─新城にバス。
12 芦別合同が神威古潭まで延長。
加地民治妹背牛昭和初期に雨竜・和・秩父別で始まったバスが
S6札沼線沼田延長で廃止、
加地が妹背牛─追分─雨竜間のバスを単独で運行。
沼田
自動車合資
沼田南忠夫
代表社員
S2.4 沼田の小平孝太郎が沼田─和、
5.4 旭川の大阪庸蔵が沼田─多度志にバス。
8.4 南・小平らで会社設立。
深川
自動車合資
深川津田源衛
代表社員
S11 津田が井手橘平・造酒次郎・佐々木喜久次らで、
深川駅─江部乙駅、納内駅バス運行。
8.4 南・小平らで会社設立。
五井録郎妹背牛S6 札沼線沼田延長により廃業した妹背牛合資から
バスを購入し、妹背牛─和を運行。
表4・中央バス統合時の各社内容

 中心になった小樽市街自動車会社は、杉江仙次郎社長に新谷専太郎専務の体制。小樽はハイカラな町として知られ、ハイカラ中の超ハイカラと見られた自動車が入って来るのも早かった。大正になって間もなくの稲穂第一大通りを走る自動車に子供だけでなく、大人までが集まっている写真が『100年の小樽』に載る=写真7

写真7・大正初期当時ハイカラだった自動車の行く稲穂第一大通

◆赤青の競争

 市街地をバスが走り出すのが大正9年。それまで市民の足になっていた客馬車との競合が始まった=写真8。最初は赤バス、翌年に早くも競争相手の青バスがスタートする。会社名は双方とも小樽市街自動車だったから、利用者側も面食らった。それでも中心街を行くバスは人波をかき分ける訳でもなく、ノンビリした光景だった=写真9

写真8・大正の年に市街バスが走り始め客馬車と競争した
写真9・大正9年からの赤バス、翌年に同名別会社の青バスが加わり、小樽市街バス戦争が始まる

 中央バスと改称したのが戦後の24年6月。中央バスの場合と似て、戦時体制下の国策統合会社が現在まで道内で健在なのは北海道電力と北海道新聞。いずれも一地域一社化の流れによって道内のシェアは初めから100%だから、経済活動は圧倒的に有利だった。
 北電は昭和17年4月配電統制令による逓信大臣命令で設立された北海道配電会社に始まる。戦後の23年に日本発送電と配電九社が集中排除法の指定を受け、電気事業再編成により26年に北海道電力が生まれた。57年3月に立派な創立30周年記念誌『北のあかり』を発行している。
 北海道新聞は北海タイムスと小樽新聞を中核に道内11紙が集まり、17年11月1日の創刊。前年12月の勅令17号に基ずく新聞事業令の公布と、17年1月の内閣告示が根拠とされて全国的に進められた一県一紙政策だが、北海道では道長官指令の形をとり道警察部特高課長も加わる設立準備委員会が具体策を作った。小樽との関連は初代会頭山田吉兵衛で触れた。

◆会議所時代から続くコンビ

 初代社長杉江仙次郎は明治11年愛知生まれ。昭和4年河原直孝会頭時の副会頭から第11代会議所会頭を3期続ける。この時に副会頭としてずっと女房役を果たしたのが、2代目社長になる松川嘉太郎。戦中戦後を通じての杉江・松川コンビが、会議所時代からの延長だったというのが興味深い。
 敗戦時の会頭だった松川については、現在でも伝えられるエピソードがある。この100年史編集の主要な基礎資料にもなった『小樽商業会議所月報』が明治30年の創刊号からそっくり残っているのは、松川会頭が占領軍から咎められたら“全責任は自分が取る”といって、焼却処分しなかったからだと言う。

◆松川伝説

 東京政経部から小樽編集部に転勤した当時、松川社長の“小樽モンロー主義”伝説が花盛りだった。「小樽人の根性を示した中央バス乗っ取り粉砕」事件だ。
 40年史は僅かに「32年7月、本州系資本の経営参加申し入れを株買い占めによる会社乗っ取りと松川社長が即断、役員中心に結束強化と株主・労組に協力を求め、全社一丸になって防戦した」─と書くだけ。
 1995年になっても「あの時、もし防戦に失敗していたら」と、今でも背筋が寒くなる─という加藤信吉前中央バス社長の談話が新聞に載っていた。
 全国有数の優良会社に育っていた中央バスを狙ったのは東京急行社長の後藤慶太。強引な株買い占めによる会社乗っ取りで“強盗慶太”の異名まであった人物で、定山渓鉄道などを既に買収済み、残る中央バスを手に入れて北海道循環バス路線を構想していたと伝えられた。
 道内バス企業の東急系列化は、その後の田中金脈問題にも顔を出した国際興業の小佐野賢治が表面に立ち、函館・早来・宗谷・北見・北紋・網走・斜里と各地のバス会社を次々に攻略していた。
 中央バスの場合、プレミアム付きの増資分を東急が引き受けるとの条件提示から始まる。これを松川が即座に拒否し、東急は中央バスの株集めに入る。

◆内地資本へ一致団結

 「小樽に本社がある会社を、むざむざと内地資本に奪われてたまるか」と小樽市民の世論に訴えると同時に、百40円から200円に値上がりした株を売らないよう株主に協力を求め、札幌証券取引所理事長の寿原外吉ら地元経済界の支援も受ける。小樽をはじめ地元の株主は松川側に付き、株価は270円まで跳ね上がったが、結局東急は2割しか手に入らず、中央バスの株買い占めによる会社支配は失敗した。
 中央バスは戦時中の国家権力による上からの統合会社であり、出発時の経過から土地・建物・車両などの現物出資がそのまま株券にされた部分もかなり多い、いわゆる寄合い世帯だった。私が入社したころの北海道新聞社も似たような状況だったから、よく理解できる。現在は安泰といわれるが、当時の社内は北タイと樽新の両系統にわかれ、翌日の新聞巻取紙代金も払えなかったという時もあったほどだった。
 株買占めによる乗っ取りに1番弱いのが、こうした寄合い世帯。そんな会社を小樽の人達が「オラが会社と信じて全面的に支援した」との話をにわかには信じるわけにいかなかった。だが、東京3紙の札幌印刷に際し、労組機関紙が“北海道の灯台を守れ”と書いた道新専従役員の1人になって自ら体験してみて、企業防衛の立場からよく理解できた。
 中央バス株は360万株のなかで、社内重役の手持ちは3分の1。防戦に出た時既に40万株が相手に渡っていたが、終局で東急側が入手できたのは110万株だった。その後の増資で220万株になっていたが、子会社の中央商事が北炭経由で買い戻している。
 買い占め当時、東急側に道庁OBも居たと言われた。北海道循環バス路線の確保を断念した東急はその後、ホテル部門にも進出したが、旭川東急インは近く撤退するようだと新聞が報じた。
 住吉神社の例祭は小樽まつりとも呼ばれる。その住吉神社の鳥居右手に松川嘉太郎の銅像が立っている。「明治23年福井県三国に生まれ、40年志を抱いて渡道小樽経済界に身を投じ─」と、碑面は嘉太郎の業績をたたえる。翁之銅像建立期成会が昭和48年6月につくり、撰文は町村金五道知事、宇野静山敬書と、役者がそろっている=写真10・11

写真10・住吉神社参道に立つ松川嘉太郎像
写真11・像碑面