小豆将軍 高橋直治

◆世界の小豆相場を動かす

 1856(安政3)年、新潟県刈羽郡石地町(現在は西山町)生まれの高橋直治が、小樽の“小豆将軍”だ。誰が何処で最初に名付けたのか定かでないが、かつての小樽商人の豪気さを表す言葉としてかなり広く知られている。
 命名の由来は、1914(大正3)年に起きた第1次世界大戦のころ、ロンドンの世界小豆相場を動かし大もうけしたからだという。相場師としての高橋の度胸と勘が好運を呼んだことは確かだが、その背景には当時の小樽が果たしていた役割と共に、世界情勢なども関係して来る。
 サラエボでの一発の銃弾が、ヨーロッパ諸国を一大消耗戦に巻き込んだ。今でも内戦続きのボスニア・ヘルチェゴビナ一帯は、依然として世界の弾薬庫だ。豆主産地だったルーマニアやハンガリーが戦場になり、輸出がストップした。欧米労働者の主食で軍隊の必需品でもあった豆が不足して世界的に値上がりした時、北海道から小豆類が大量に輸出された。
 ヨーロッパまで道産豆が出ていったことだけでも、当時としては珍しかった。北海道の内陸開拓が軌道に乗り始め、農民が商品作物の栽培に重点を置くようになっていた。第1次大戦による商品作物の道内作付面積の変化が表2。菜豆類が7年前後に急増している。ジャガ芋はそのまま輸出できず澱粉加工が必要なので、工場施設の建設が先決。だから作付増加のピークは8年と少し遅れている。

年次豌豆菜豆ジャガ芋
大正 4623283545
5648365458
66797510576
77245513684
874269108103
9755275868
10761165552
表2・第一次大戦による商品作物の作付面積の変化
(単位千町歩 道庁統計書から)

 1933(昭和8)年の支庁別シェアが表3。このころになると、十勝の豆が道内で断然優位を占める。菜豆で63.8%、小豆が43.4%に達している。金額から見れば米がダントツだが、2位が菜豆、北見地区の薄荷は3位、4位澱粉、5位に大豆、6位でようやく小豆になる。

品目石狩空知上川後志十勝網走金額順位
5.335.036.73.92.56.45,3571
小豆8.513.010.62.243.48.31,2256
大豆2.16.11.22.253.18.71,2725
菜豆0.22.45.64.363.812.61,6902
豌豆1.17.29.21.441.921.48997
澱粉05.641.712.22.822.51,3114
亜麻7.310.19.96.126.416.58668
除虫菊0.417.160.015.402.52339
薄荷00.66.00093.11,3523
5.517.719.94.919.818.316,912
表3・商品作物の支庁別シェア(1933年、%.額の単位千個)
(昭和8年度北海道農産物検査所事業部成績から)

◆小作制が契機に

 当時の北海道農業の典型を雨竜の蜂須賀農場に見る=表4。明治22年にほかの華族と一緒に5万坪の土地を借り受けて、大規模牧畜を目指すが失敗。華族組合農場解散後、配分地の90ヘクタールに加えさらに5,600ヘクタールもの払下げを受けた蜂須賀は、日本一の大地主でもあった。華族農場時代の直営方式をやめて小作制に切替えると、経営は黒字になる。地主は東京に暮らし、現場の管理を支配人に任せる。農民は当面の生活維持のために、小豆中心の換金作物に重点を移す。
 明治31年に70ヘクタールだった小豆作付面積が33年には335ヘクタールと一気に跳ね上がる。これが大戦による世界的な豆と澱粉の値上がりに結び付き、農村の俄か成金ともてはやされた。
 輸出向けは菜豆と呼ばれるウズラや手亡に、豌豆が中心だった。小豆は戦後になって国内の菓子原料になり相場の焦点とされ、“赤いダイヤ”の異名がつけられて、テレビドラマに登場するほど持てはやされた。つい先ころ小豆の先物取引で得た所得26億円を隠し、脱税の罪で商品取引会社の社長が逮捕された、とのニュースが報じられた。この社長は、東京穀物商品取引所から処分されたが、今でも小豆相場が一攫千金の金儲けの場になっている事実を示してくれた事件だった。

年次小作戸数収支円
成墾反別小作料成墾反別小作料
1893-96334.0168.648-4,545
18991,405.7500.3288-5,951
19020.31,697.2927.1367-5128
1907137.627.02,099.21,466.861810,757
1911705.3419.72,117.01,519.078548,455
19161,019.3831.12,737.01,757.5872135,045
19211,496.21,254.32,556.01,862.6957252,972
表4・蜂須賀農場の開墾と経営状況(単位町歩 道立農業研究所資料から)

◆宮吉と二人三脚

 直治が小樽に来たのは18歳。荒物屋の店員を3年やって商売のコツを飲み込んでから独立。まず味噌・醤油の醸造を手掛けたのが明治18年。23年、花園町に蒸気機械を備えた精米所を開設。陸産商高橋直治が海産商板谷宮吉、金子元三郎らと図って小樽共商会を組織、商業新聞の発行まで計画。続いて小樽米穀鰊肥料取引所を26年に設立し、翌年米穀外5品目取引所と改称する。27年暮れ創刊の小樽新聞出資者になる。
 27年の道実業人名録では米穀荒物商。二人三脚を続けた板谷宮吉も同じ。宮吉との同業は味噌醤油に始まり、精米もほとんど同時。小樽政界でも死ぬまで同郷の友で、国会議員の政治生命を継いだのも宮吉だった。

◆世界市場に乗り出す

 直治が弟喜蔵と高橋合名会社を始めたのが明治30年11月。営業内容は米・海産物、荒物の売買と委託販売、さらに白米・味噌・醤油も扱った。委託問屋は、生産地から鉄道で運び込まれた農産物を駅商人から受託し、営業倉庫に入れて受け取った倉庫証券を担保に銀行から融資を受け、積出し・輸出業者に売るのが仕事だった。
 高橋合名は委託に止まらず、積出しから輸出まで手を伸ばす。そして、国内最大手の日本郵船と交渉し、それまで船便の都合で直接取引不能だったロンドンの商社と直取引を始める。外国向け命令航路に就航していた日本郵船の貨物船を、小樽に回航してもらうことで船賃が大幅に安くなった。このため横浜や神戸の貿易商が小樽支店を開設したというから、直治の政治的な手腕のほどが察しられる。

◆小豆将軍は自称?

 ロンドン市場との関係は、明治41年に横浜の外国商人が青豌豆200トンを送ったのが道産豆輸出の始り。小樽相場の値動きが電報で送られ、ロンドンの世界市況にまで影響を与えた。小樽相場は時折突飛な思惑が飛び交い、各地の市場を乱すケースも見られた。特に数の子の値幅は大きく、小樽商人にとって旨味が大きかった。菜豆は俗にイロマメといわれ、北海道では大小豆以外の一切の豆を指した。

図2・倉庫業の高橋直治商店

 豆相場をリードするために、出来秋の収穫物を買い込み、自前の倉庫にしまって相場が上るのを待つ必要があった。だから高橋商店の主力は倉庫業だった=図2。明治44年発行の小樽区写真帖に、当時の高橋合名有幌倉庫が入っている=写真8。石造倉庫が軒を並べた通りに米俵を積んだ馬車がゆるゆると進む風景は、古き小樽そのもの。
 “小豆将軍”の異名は、小樽区初の代議士として立憲政友会から連続3選された、政治家高橋が自分のイメージ作りに利用した傾向が多分にありそうだ。

写真8・明治末の高橋合名の有幌倉庫

 明治45年の第11回衆議院議員選挙では、政友系茶話会から高橋が立候補し、対抗馬は憲政系協和会の弁護士山田辰之進だった。開票の結果は高橋の再選だった。この選挙で投票所にされた区役所前で、衆議院議員候補者高橋直治君の大看板が右手に立てば、左は「血涙を揮い義侠に訴ふ 山田辰之進」の文字が踊る=写真9

写真9・明治45年の第11回衆議院選挙での区役所前