板 谷 王 国

◆大火で無一文に

 板谷宮吉は1857(安政4)年越後国刈羽郡宮川村(現在は新潟県柏崎市)の旧与板藩御用商人をした、という漁網商板谷善左衛門の四男に生まれた。同郷の海産商金子元右衛門(金子元三郎の父)を頼って、福山にきたのが14歳になった1870(明治3)年だった。5年後に、元右衛門の紹介状を持って、新興商業地の小樽に移り、海産商工藤作右衛門の店の奉公に入る。
 海産業の商売修業を続けた後、22歳で当時の風習に添い長兄常太の嗣子になってから、同郷の女性と婚約する。明治15年、信香町に荒物雑貨店を開いて独立した時が二26歳だった。
 宮吉の試練は商売上というよりも、18年の入舟町出火、20年の永井町隣家からの出火と、僅かの間に重ねて襲われた火事だった。妻は病床に伏し、無一文になってしまった時、助けの手を差し延べてくれたのが同郷の高橋直治だった。
 苦しい時に受けた恩は生涯忘れず、のちに“小豆将軍”の異名をとった直治とのコンビは、35年8月に行われた初の国会議員選挙に至る。板谷の応援を得て、直治は対立候補だった2代目会頭の高野源之助と競り勝ちして当選した。
 宮吉は手広く商売をした。21年に稲穂町で三菱精米所を開業して、故郷の越後から玄米を運んだ。精米業は大正に入ってやめるが、24年からの醤油醸造は60年間にわたり、戦後の昭和26年まで続く。その延長で郷里新潟から原料を直接取引するのを目的に、26年に100トンの小形汽船魁益丸を買ったのが“海運による開運”になった。

◆敏腕家の1位

 28年の会議所設立では発起人の1人に入る。翌年に北浜で倉庫業を開始するまでは個人営業だったが、区会議員に当選した32年に板谷合名会社を設立する。理事長が長兄の常太であり、宮吉は理事に就いた。合名会社に従来の営業全般を引き継ぎ、自らは新しい海運業に全力投球する。
 開戦の前年に買った2隻の持ち船が日清戦争の政府用船になり、その時もらった補償金で買った新鋭の英国船がまたも日露戦争での軍用船になり、旅順港閉塞作戦に参加する。いずれも勝ち戦だったから膨大な政府補償金が入り、戦後に大発展する板谷海運の原資になった。日清・日露両戦役が企業発展のきっかけになるのは、小樽でも板谷に限らず藤山も同じ、当時の民族産業資本の一般的な成功物語だった。
 小樽新聞が明治29年6月に札幌・小樽の商業家人気投票の結果を発表したら、敏腕家の1位と信用度3位に板谷宮吉が選ばれた。この時、独立して14年たった40歳だった。
 明治日本の造船能力では優秀な外洋船の建造は無理だと知ると、当時世界一だった英国から次々と大型船を購入する。37年3隻、38年、43年各1隻、44年2隻と積極的な拡大策の末、44年の所有船は日本5位の6隻、17、503総トンに達していた。

◆先取りした早い動き

 この年に後の帝国南進策を先取りした形で、南洋郵船組をつくってオランダ植民地だった南洋に進出する。この会社は、営業利益の分配を目的にした匿名組合組織という奇抜さだった。
 小樽港から東回り、門司までの沿岸5港を結ぶ定期航路では、政府肝煎りの日本郵船と対等に切り結んで来たが、競争していては経営上好ましくないからと、郵船側と語らって採算が採れない同航路を廃止するーなど動きは早い。
 家族企業からの脱却をねらい、株式会社「板谷商船」を設立したのが明治45年。資本金15万円は板谷合名を合併してすぐに30万円になり、大正7年には100万円、11年500万円と瞬く間に大海運会社に成長する。板谷商船所有船のピークは昭和14年の8隻38,089総トン。それも過半数が新造のディーゼル快速船という好調ぶりを見せた。
 対中国方面では、日露戦後で日本領になったばかりの大連に、合資会社板谷商行を設立する。この会社は大正2年に英国船を買って、ふるさとの地名から黒姫丸と命名。13年には大連を中心にした遼東半島周辺の海域を担当する黒姫汽船合資(資本金5万円)に成長する。一方、ロシア関係では、大正3年に資本金50万円の樺太金融会社をつくり、半年後に樺太銀行と改称。こちらも資本金200万円と急成長する。
 近代合理主義に徹しているように見えても、商船本店を故郷新潟の宮川に置き小樽は支店と、ふるさと志向はかなり濃厚だ。
 「板谷財閥」の異名がついたのは、海に浮いた船よりむしろ、各地に点在するたくさんな農場の方が人目に付いたからだろう。明治35年の小樽若竹町に始まり、永山・狩太・下徳富・北竜・美瑛の各農場、増毛・留萌・浜頓別・奈井江・滝川・稚内・砂川などの道内に始まり、東京の板橋・麹町、はては大阪にも宅地を買っていた。こうした資産をもとに、戦後の36年になって改めて宅地建物取引業の資格を得て、不動産部門を会社営業目的に加えている。

◆司馬遷なら

 死後3年たった昭和2年、東雲町の本邸庭に初代宮吉の銅像が完成した。その脇に立つ、明治の文豪徳富蘇峯撰文の碑文にいわく ─ モシ司馬遷ヲシテ明治大正ノ史ヲ編セシメバ、貨殖傳中ニ加フルモ末タ知ル可カラス。
 つまり、中国の史書『史記』の編者、司馬遷がもし日本の明治大正史を書いたら、必ずや貨殖伝中の人物に宮吉を取り上げるだろう、とまで褒めちぎっている。
 碑文ついでに言えば、国道5号線沿い余市寄りの長橋中の校庭に、創立40周年を記念した2代目宮吉の胸像が立ち、その横に昭和40年10月の日付の碑文は ─ 「大正14年当時は北海道唯一の市立中学校であり、敷地1万坪有余と当時の金額25万円と言う莫大なる私財を御寄贈されたものであります」と記す=写真7

写真7・国道寄りの校庭に立つ宮吉像
写真8・長橋中体育館正面の幕の校章

 現在の長橋中に留まる板谷家の名残は胸像と校章。校章は板谷家の「丸に3つ柏」からデザインした3つ柏紋。玄関入口の外壁に高くかかげられているほかに、体育館正面の幕にも3つ柏の校章が付いていた=写真8
 1975年の開校50周年記念誌に、「633制による新制中学はすべて昭和22年5月1日開校と思っていたのに、なぜ長橋中だけ昭和50年が開校50周年になるのか、奇異の感がした」という校長の巻頭言が載っている。さらに開校60周年記念誌では、現在の貨幣価値に換算して4億円以上にもなる20数万円と1万坪を上回る土地が、旧制小樽市中学校発足の源になったのは「実に板谷氏に代表される当時の小樽市財界人のスケールの大きさと教育に対する激しい情熱が偲ばれる」と、校長が書く。大正14年完成した市立小樽中の新校舎は実に堂々としたものだった。それを高台から撮ったのが写真9。『市立長橋中校舎改築落成記念誌(昭和47年発行)』に載った、1958年に同窓会が校庭に建てた2代目板谷宮吉の胸像と校舎を写したのが写真10

写真9・大正14年完成の市立小樽中学校舎
写真10・同窓会が校庭に建てた二代目板谷宮吉の胸像

◆小樽学園都市のきっかけ

 4,000坪余の屋外運動場や短水路公認プールなど全道的なモデルスクールだった。学校専用の水道用貯水池まであり、海外留学し当時の教育先端理論だったダルトンプランの権威者だった初代校長、少数精鋭の進歩的な英数科教育などなど。塩谷に暮らし、小樽高商を出たばかりの伊藤整が英語を教えた=写真11。小樽発の全国的な文学賞として定着した伊藤整文学賞所縁の地でもある。

写真11・市立中教員時代の伊藤整(右)

 小樽作興は教育からとの市長・教育長らに共鳴し、初めは病院を寄付するつもりだったのを市立中学に変更したという。「翁は実業界の名士であるばかりでなく、教育に対しても遠大なる思慮と計画をもたれていたその卓越した識見には、まことに頭の下がるものがあります」と、碑文に付け加える。
 子どもに自分と同じ運があると限らないから、親の仕事と財産を守るために学問がどうしても必要だと、初代宮吉は長男を早くから東京に出し、早稲田の商科を卒業させた。父を継いだばかりの2代目は、自ら学んだ早稲田流の中・高・大一貫の学園制を目指し、理想的な中学設立を手掛けた、との見方もできる。既に開校していた商大の前身、小樽高商と結ぶ教育体制ができたら、商都小樽はこの時に早くも一大学園都市になっていたかもしれない。

◆2代目の活躍

 大正13年に2代目宮吉を襲名した長男真吉は、商船社長・樺太銀行頭取から北門貯蓄銀行頭取、北海水力電気取締役、横浜生命保険社長のほか、貴族院の多額納税議員を3期勤める。昭和10年に会長になった10合呉服店は、戦後関西系百貨店として札幌駅前にも進出した“そごう”デパートの前身。戦後の29年から33年まで10合社長をしている。東京郊外の京成電気軌道取締役から五州汽船、黒姫汽船、羽田精機、平和生命保険といった会社にも関係し、生田原の北王鉱山などの金鉱にも手を染めた。
 板谷商船の所有船はすべて軍に徴用され、11隻47,628総トンが戦火で失われた。敗戦は、戦時補償金1,702万余円をも特別税として取立てた。戦後になって社名も板谷商事と改め、企業再建整備法による再建整備会社に指定された。敗戦の痛手も癒えた26年に板谷商船に戻り、資産再評価積立金による増資を繰り返して資本金は1億5,000万円に達し、50年さらに3億円増資して現在は4億5,000万円。大阪商船三井船舶の定期傭船を主体に3隻13,735総トンを所有する大船会社なのだ。
 ─ 戦前は日本10大船会社のひとつにランクされた。運賃収入で土地、山林を買い、豊かな財力が“板谷王国”を築いた。戦争のため大半を失った板谷商船の歴史は、そのまま商港・小樽の盛衰史でもある ─ と、昭和45年の毎日新聞が書いた。