◆公会堂を寄付
春の陽光がまぶしく、小樽公園の樹々の緑に照り映える中で、藤山要吉の胸像に対面した。道路からちょっと引っ込んだ位置に在るので、特に注意しないと気付かずに通り過ぎてしまう=写真1。
「北海海運の大先覚、真に開発草創期に於ける本道経済界の雄、進取の気象に富み、公共に尽すの念篤く、人々敬仰せざるはなかった・・・・」という側面の碑文は、昭和33年建立当時の安達与五郎市長が書く。道路筋向かいに端然とたたずむ公会堂は、1911(明治44)年に藤山が皇太子宿泊所として独力で建て、小樽区に寄付した。武家屋敷風の門と生け垣に囲まれ、落ち着いた風情を見せ1世紀近くも立っているのに、今なお健在。商品展示場などに使われている。
この小樽公園は海と山に挟まれた狭い小樽市街の中心部を占め、起伏に富み緑が一杯の市民憩いの場になっている。後志国小樽郡花園町奥の国有未開地が、道庁指令で共有遊園地にされたのが明治26年。東山、西山、桜が丘に櫛形山などと京風に名付け、写真2は現在地裁がある嵐山付近。茶店下に弓道場があり、今も嵐山通りと呼んでいる。
要吉は小樽商業会議所の創立議員の1人であり、第四代会頭。明治36年からの第3代・添田弼会頭から42年に引継ぎ、大正2年に次の磯野進に会頭職を譲っている。
添田は明治24年から2年間郡長を勤めた後、商人に転身。会頭辞任後に小樽銀行頭取になり、経営不振に陥った北海道商業銀行が資本金100万円を25万円に減資した後、資本金50万円の小樽銀行と合併した新生北海道銀行の頭取になっている。
◆養子が転機になる
藤山要吉は1851(嘉永4)年羽後国、今の秋田県に生まれた。生家は佐竹藩の御用油商だったというー。 次男の気安さからか、商用で出掛けた青森県弘前から津軽海峡をひょいと越え、当てもなしに蝦夷地に渡ったという。これといった伝手もなく、福山の回船問屋・田中武右衛門に奉公入りしたのが17歳の時。江戸から東京へ、と世の中が大変動していた時期だった。激動期に単身で身寄りもない北海道へ渡る元気さと勇気、決断力が、後の小樽大商人に成長する基盤になっている。
21歳になった明治5年、小樽の大十中村の問屋奉公に移る。そこで働いているうちに信香町の回船問屋藤山重蔵に見込まれ、手代から養子になったのが要吉にとって人生の転機になる。
松前藩政時代に培った蝦夷地商法のコツを城下町の福山で習得し、維新後に商権主力が移った小樽で商売の華を咲かせた商人グループの1人だ。山田吉兵衛、渡辺兵四郎、金子元三郎、麻里英三らがこのタイプ。
養子になった翌11年に重蔵が死んで、家業の回船問屋を継いだ。しかし、「これからは他人の船を動かして手数料を頂くような時代ではない。自前の船で商売をやろう」と、海運業への進出を目指す。まずは小型の和船2隻から始めたのだが、それが時代の動きにぴったりと合致する。
◆決まった海運業
時あたかも小樽と北海道内陸部を結ぶ鉄道が開通し、ますます海上輸送の重要性が高まる。小樽ー稚内航路を始める天塩漕運会社を設立したのが20年。22年7月にはさらに天塩北見運輸会社を設立した。
資本金5万円は麻里英三ら地元の漁業・商人に参加を求め、洋式木造スクーネル型の新型汽船2隻を石川島造船に発注する。翌23年5月になって増毛郡弁天町に本社を置き、続く24年には3隻目の新鋭汽船を注文したうえ、本社を小樽港堺町に移している。
この新型の西洋汽船は北見地方と大阪を結ぶコースを走り、27年には下関との間を運航する藤山汽船部に発展する。この年に汽船小樽丸を新造し、道北地方に散らばる自分の漁場巡りにも使う。和船に始まり洋式帆船へ、次は動力を使う新型汽船、と藤山海運の規模は時代とともに次々と拡大し続けた。
◆郵船と太刀打ち
しかし、中央政府と結ぶ大資本の日本郵船が道内航路にも積極的に進出するようになると、地方資本の競争力では太刀打ち出来なくなる。
日本郵船は20年11月、離島への逓信省命令航路へ就航を始め、冬になると欠航し勝ちになって運賃も高くなると、年額88万円もの政府補助をもらう。25年には、所有汽船47隻の内、船齢10年以上の19隻と帆船を償却する近代化を進める一方、横浜ー函館間航路に加え、神戸を起点にした横浜経由の東回りと下関経由の西回り航路を共に小樽まで延長する。
24年に上野・青森間の鉄道が開通し、翌年室蘭・岩見沢間の北炭鉄道も開通、さらに室蘭・青森航路が函館に寄港と、小樽港の競争相手が続々現われる。函館・室蘭との3港定期航路が逓信省命令航路とされ、年額5万円の補助によって貨物船の大型化とスピード化が一段と押し進められると、小樽商人が海運業に次々に進出するといった情勢になった。
特に下関経由の西周り航路は以前の北前船ルートであり、石川県瀬越村の大家七平、広海仁三郎や福井県河野村の右近権左衛門ら北陸系の商人が、小樽にも倉庫を造るなどしての出番になる。この時期の海運業進出は藤山と板谷だが、いずれも海運で飛躍するのは日露戦争後。藤山はこの時は天候不順などの自然条件も重なり、持ち船の沈没にも見舞われたりして、天塩北見運輸は30年に解散する羽目に ─。
◆旅順港閉塞作戦
明治37年3月27日の旅順口閉塞作戦は、商船王国・板谷合名発展のきっかけになったと同時に、藤山汽船部にとっても幸福の女神になった。
昭和2年文部省発行の児童用尋常小学修身書の巻2に“軍神広瀬中佐”のお話が載っている=図1。
「海軍中佐広瀬武夫は旅順の港口を塞ぐため、闇夜に汽船に乗って出掛けました。敵の打ち出す大砲の弾の中で勇ましく働いて引上げようとしましたが、杉野兵曹長がいませんから、3度も船の中を尋ね回りました。いよいよいないので、端艇に乗り移って帰りかけた時、中佐は大砲の弾に当たって立派な戦死を遂げました。」というのが、『忠義』と題する修身教科書の内容。
小学2年生が対象だから、全文カタカナ。当時の日本少国民は全員この教科書で学んだ。“スギノはいずこ”と、軍神広瀬中佐が杉野兵曹長を探し回る小学唱歌は戦前派には懐かしい子供時代の思い出に直結する。
この閉塞作戦は1度だけでなく、実際は前後3回、全国から新鋭大型船延べ21隻が動員された。板谷商船の米山丸と弥彦丸が沈められたのは第2回、5月9九決行の第3回目の作戦には藤山汽船の小樽丸が旅順港口で爆沈している。
◆補償金で太る
船足が早いロシア太平洋艦隊は旗艦以下40数隻が、東郷平八郎率いる日本聨合艦隊を釘付けにして津軽海峡を我が物顔で荒らし回っていたので、基地の旅順軍港内に閉じ込めようとして、港口に船を沈める戦法だった。このために、全国から大型船を徴用した。現代から見れば、本気?と聞きたくなる戦法だが ─。
開戦時には“ロシア浦塩艦隊が小樽を海上から砲撃する”とのデマが飛んで、住吉駅に避難民が殺到したというご時世だった。だから「お国のために」との掛け声の下での消耗戦術も、他にやり方がなかったのかもしれない。効果はどれほどのものだったか不明だが、結果として勝ち戦だったから、戦後になって膨大な政府補償金が入る。そのお陰で全国的な海運会社に成長し、40年代の藤山汽船所有船舶は10余隻を数えていた。
明治27年の道実業人名録ではまだ水産業とされているが、同時代の小樽商人の例と同じく、海運専業でなくほかに漁場と農場も手広く所有・経営していた。
漁場漁業は、20年に稚内でニシン漁を手掛けたのが始まり。24年には紋別で鮭鱒、29年には斜里・知床にも進出。北見国内の漁場が30か所もあったから、自前の洋式帆船に乗って自分の漁場回りをしていた。日露戦後の39年には日本領になった樺太にも出かけ、沿岸の建網漁にまで手を広げている。
◆農場経営も
さらに農場経営にも手を広げ、留萌原野の未開地300町歩に北陸地方からの小作人83戸を入れて開拓したほか、幌向原野でも10戸の小作人を雇って四十町歩を開墾している。
こうした原野開墾事業は金儲けだけが目的の単なる商人の片手間仕事ではなかったようで、その1つの証拠に留萌市には現在でも要吉ゆかりの「藤山」の地名が残っており、JR留萌線にも藤山駅がある。1907(明治40)年から昭和13年まで藤山炭山もあった。
開墾地に地主の名が地名として残るケースは開拓まもない本道ではまま見られるが、その場合、他に比べ多くは現地の農民に慕われるような施策が行われている。海運業で藤山とすぐに比較される板谷宮吉も、似たような農場経営をしており、今でも空知・北竜町に板谷の地名が残る。
空知に沼田町の名を止める沼田喜三郎は小樽共成の社長。加賀出身の小樽商人が集まって出資し、恵庭地区を開拓した加越能開耕社に、小林多喜二の小説『不在地主』のモデルにされた磯野農場など、小樽商人の農場は数多いのに、人名地名として現在まで使われている例は極めて少ない。
◆公共に尽すの念
後の大正天皇になる皇太子が小樽にやってきて宿泊する、というのは天皇が神聖視されていた明治44年当時としては天下の一大事。いくら景気が良いといっても、まだ小樽には皇室に連なる御仁にお泊まり願えるような建物はない。そこで要吉が単独で千鳥破風瓦葺き平屋建て267坪の純日本風の御殿を公園内に建て、御宿泊所にどうぞーと言った。唐破風三方吹き抜けの車寄せ玄関は皇太子用だったから。写真3は公会堂の落成式。式場は玄関上に櫓を組み、誇らしげに日の丸を高々と掲揚している。
要吉の「公共に尽すの念篤く」小樽区に寄付され、その後皇族らの宿泊とともに永く市公会堂として使われた。昭和38年に市民会館を市民の足に便利なこの場所に新築することになった。公会堂は道路を越えた場所にそのまま移動したので、要吉の胸像は新市民会館の正面左手の庭園内に残った。
初期小樽商人にはかなりな文化人が多く、明治7年8月に結成された俳句結社の親睦社同人として「以寧」の俳号を持っていた。共成の3代目社長井尻静蔵の俳号は淇水、水産業の船木忠郎は古漁の俳号を使っていた。
◆遊びも派手
また1代で藤山財閥とまでいわれた金満家だったから、派手な遊び方でも名を馳せた。当時の小樽の勢いを物語るのが、料亭の海陽亭に残る写真4。
邦舞のおさらい会があって、錦座前に勢ぞろいした芸者と半玉の一大デモンストレーション。写っている芸者が106人、半玉は37人。大正10年の撮影当時、小樽にはこの倍ぐらいの芸者が商売していたそうだ。
芸者ついでに小樽ならではの冬の人力ソリが写真5。人力車は現在のハイヤー以上のステイタス・シンボルだった。坂道が多く道幅も狭い小樽では主要交通機関とされ、往診が多い医者たちは専属の車を持っていた。冬になると、幅をきかせたのが人力ソリ。花柳界には2人乗りの相乗り用が喜ばれたそうだ。
小樽商人は万事派手好きといわれた。相場を当てたといっては、子分を集めて料亭で大尽遊びをするのが大好き。こうした場所は場持ちの良い芸妓が必要とあって花街が賑わう。川嶋康男が『小樽雪舞』に大正14年5月現在として小樽に5つあった見番ごとに本玉、半玉、幇間の構成内容を数字を挙げている。ノンフィクション物なので確かな資料として使えないものかも知れないが、一応紹介する。見番名、本玉、半玉、幇間を含めた総数の順で、(1)北斗・81・17・99 (2)共立・97・11・98 (3)共立分見・70・11・81 (4)中央・76・10・87 (5)北斗東見・31・1・32 となっている。写真6は入船町に遊廓が移った後の明治40年ころの花魁姿。
藤山だけでなく、豪毅といわれた小樽商人の桁はずれな遊び方は東京方面でも有名になり、紙幣に火をつけ灯りの代わりにしたといった成金の話が1人歩きする。そして、“蝦夷の大尽、吉原の大門を閉じる”とまで喧伝され、小樽の花柳界に人を集めては紀国屋文左衛門ばりの評判を得意になって吹聴し回るような雰囲気があった。