◆銀行撤退
北海道のウォール街からの銀行撤退は見事というほどの手際さだった。機を見るに敏、という言葉そのもので、金利差で稼ぐ銀行稼業にとって当然ともいえそうだ。
市道の緑山手通に残る銀行の建物は、運河側から見ると十字街に面した拓銀がペテルブルク美術館になり、三菱銀行は中央バス第2ビル、第一勧業銀行が紳装、残った一角は新築された小樽郵便局と、ほぼ昔の面影は止めている=写真9。少し離れた国民金融公庫も旧協和銀行だった。
色内十字街に近く、小樽商工会議所前に位置するさくら銀行は名称もユニークだが、建物も一際目をひく。北米の花崗岩を外壁に貼るルスティカ積みと軒回りの人工石材の装飾彫刻が特徴のきれいな建物だ=写真10。
さくら銀行は元の三井銀行。戦時中の昭和18年に第一銀行と合併して帝国銀行になったが、29年1月に元の三井に戻った。宮本百合子の父中条精一郎と工部大学校第1期卒業の曽根逹蔵が設計して、大正15年7月起工。完成した昭和2年ころがウォール街の全盛期だった。
三井の小樽進出は明治13年9月と早かった。明治2年に民部省通商司に海陸産物の販売を、開拓史が金穀出納を任された三井組が信香に置いた出張所が大火で焼けた後、25年に支店に昇格している。38年当時の支店は石造2階建て。窓に特徴があり、道路側に高い鉄柵を巡らしている写真が明治44年発行の『東宮行啓記念写真帖』に収められている=写真11。
同じ写真帖に第十二銀行の支店もある=写真12。銀行の小樽進出と撤退を表にしてみた=表4。