銀 行

◆着物姿に山高帽子

 観光客でにぎわう小樽運河にほど近い堺町1丁目の道路沿いに、旧百十三国立銀行小樽支店の建物が、北海道林屋製茶の倉庫として残っている=写真5
 「着物姿に靴、山高帽子といった風の建物が、中央から遠く離れた小樽に姿を現したのは明治26年だった」と、地元画家の千葉七郎が『小樽の建物』のなかで、次のように表現している。
 “建築様式からいえば擬洋風であり、見よう見まねで日本大工が洋風らしく造った、西洋風のなかに中国風や和風も混じる不思議な建物。新しいものが伝統と接して生まれる、民族の清新なたくましい生活の結晶” ─ 。さしずめ当時の小樽のたたずまいそのもののシンボル、ともいえようか。
 瓦屋根、寄棟の両端に槍のように尖った飾りが立ち、分銅の銀行マークが連続した模様になって軒下に続く。明治の末から小樽に流行し始めた『木骨石造建築』の先駆的な建物として、昭和60年7月に市の保存対象歴史的建造物に指定された。

写真5・旧百十三銀行支店

◆国立銀行ラッシュ

 第百十三国立銀行は明治12年1月、函館に創設された本道初の地場銀行だった。幕末期に箱館産物会所用達をした杉浦嘉七や田中正右衛門ら函館商人が資本金15万円を出資した。
 「国立銀行」と名前は大仰だが、実態は西南戦争の軍費をまかなうため政府が乱発した、金銀貨幣の正貨と引換えない不換紙幣の償却処分を主目的にした民間会社だった。華士族の秩禄公債も資本金に当てることができたので、本道開拓の初期には全道的にかなりな部分で深くかかわった。八雲開拓を計画した徳川慶勝は第11国立銀行に5万円を年利6分で託し、年3,000円の利子を10年間支出して旧尾張藩士の移民を保護しようとした。
 公債と銀行の利子で二重にもうけられる、との宣伝で全国的に俄か国立銀行が乱立。153にも達した段階で新規設立はストップ。15年に日銀ができて、31年までにすべての国立銀行が普通銀行に転換している。百十三銀行も30年に資本金50万円の普通銀行になった。こうした各種銀行ラッシュに小樽がもまれた時代の証拠だろう。
 百十三銀行は小樽進出15年後、木骨石造の支店を近くに新築した。2つの建物を比べると、15年間の銀行業務の拡大ぶりがよく分かる。41年建設の木骨石造の新支店も千秋庵本社として健在だ=写真6

写真6・旧百十三国立支店だった千秋庵本店

◆金利差で暮らす

 商売には元手がいる。品不足で商売繁盛なら、それだけで金利は高くなるのも常識。穂足内村初代名主の山田兵蔵が信香に質屋を開業した時の利息は月4歩。年利にすると48%になるから、ずいぶん高い。明治初期の小樽で、高利貸しが利息天引の月2~3歩、小口高利の烏金が3~4四歩の利子を毎日徴収し、積算利子なので1カ月ですぐに元金をオーバーしてしまったそうだ。
 14~5年ころの銀行金利は函館で年3割、札幌・小樽は最低2割、最高3割だったと小樽市史にある。横浜・神戸で日歩3銭なのに、小樽は5~6銭と利子が倍近いといわれたのが明治33年ごろ。日歩3銭で年利11%になる。
 日清戦争の賠償金3億6,400万円が市中に出回り、借金景気に全国が沸いたころは、日銀から借りた金を商人たちに貸し利さやを稼ぐのが銀行の仕事だった。
 銀行金利は経済の景気につれて変動するが、一般的に定期預金が4~8分、貸付金・手形割引で1銭8厘~4銭5厘程度だったが、30~35年は預金が7~8分、貸付金・為替手形で4銭5厘~4銭とかなり高かった。小樽商人がよく利用した荷為替は、31年で3銭から10銭と利息の幅が大きかったが、輸送手段の安定や商売の信用増加につれ4銭から1銭7厘と低下し、小樽商業における銀行の役割はますます重要度を増した。

◆小樽が原点

 札幌の大通に面して本店がある北洋銀行は、大正4年の無尽業法発布を待って寿原重太郎が、甥の英太郎と資本金10万円で同6年に創設した小樽無尽会社に始まる。英太郎は同社の社長になり、初の公選小樽市長になった寿原グループのリーダー。戦時中の政府主導による企業合同で、道内の無尽会社が集まって造った北洋無尽が北洋相互銀行になり、相互銀行の普通銀行化に伴って北洋銀行に衣替えしている。
 小樽に本店を置く地場銀行に焦点を当て、この時期の典型的な銀行の変身ぶりを見てみよう。まず27年設立の余市銀行。漁場の資金供給を目的に、国の重要文化財に指定された旧下ヨイチ運上家の経営者だった林長左衛門と、平磯岬上に移設された銀鱗荘を造った猪股安之丞の2人が資本金10万円を出し、漁業者の着業資金を主力にして余市に設立した。しかし、小樽支店長が土地投機に失敗して、経営がおかしくなる。
 30年9月に本店を小樽に移して、資本金を50万円に増資し小樽銀行と改称する。頭取は36年から3代目小樽商業会議所会頭を3期勤める添田弼、30年から2代目会頭を2期やる高野源之助が取締役に入る。古平と増毛に支店を設け、39年には北海道商業銀行を合併して北海道銀行になる。余市→小樽→北海道と、名称が段々と大きくなっている。
 道商業銀行は屯田兵の積立金をもとに、24年6月札幌に設立された屯田銀行が前身。31年小樽に本店を移し、札幌、岩内、江差に支店を置いて、33年に道商銀と改称。36年に経営の悪化が表面化して、園田道長官が政府・日銀に救済を求める。日銀の監督下で整理に入り、小樽銀行が乗り出した。資本金100万円を25万円に減資して欠損の穴埋めに充て、資本金50万円の小樽銀行と合併し、75万円の道銀に生まれ変わった。当時の小樽商業の力を物語っている。
 この道銀は戦時中に拓銀に合併されており、現在札幌市中央区大通西4の角に本店がある現在の道銀は、全くこれとは別に戦後の26年3月に創立された。

◆踊る貯蓄銀行

 日清戦後の賠償金ブームのなかで全国各地に小銀行が乱立したが、その反動で全国的な不況に見舞われたのが30~34年。34年春の金利低下から銀行整理が始まり、小樽貯蓄銀行が破産する一方、呉服商の向井嘉兵衛が中心になって資本金20万円の中立銀行が小樽に誕生する。小樽本店の地場銀行は34年当時の4つから、39年には中立と道銀の2行に減っている。
 業務不振の札幌・江差両貯蓄銀行と松前銀行が合併して、38年に資本金19万円で北海道貯蓄銀行が設立され、39年には江差銀行も併合する。40年8月にはその江差支店で取付騒ぎが起き、日露戦後の好況時の放漫経営もたたって41年5月に支払停止。政府に泣き付き、拓銀の梃入れを受け42年に拓殖貯蓄銀行と改称。大正11年の貯蓄銀行法改正で北門銀行と改めて商業銀行になり、貯蓄銀行業務を北門貯金銀行に分離している。

◆拓銀の誕生

 農工業向け長期融資をする日本勧業銀行が29年に生まれ、本州各県ごとに農工銀行が誕生しているなかで、政府の保護・監督下の特種銀行として北海道拓殖銀行が設立される。32年に法案が国会を通り、翌年4月に札幌本店、11月に小樽支店がオープンした。
 設立委員に小樽から倉橋大助、広海仁三郎、高野源之助の3人が参加。当時、本店が道内の銀行は13。小樽・函館に各3、札幌・江差が各2、あとは寿都・松前・根室に1つずつだった。
 拓銀小樽支店は4階建ての新社屋だった。『拓銀10年史』(明治43年刊)にどっしりした、さも銀行らしい石造の建物が載っている=写真7
 土地を担保に農民に融資したので、全道の農地の半分近くが拓銀の抵当に入っていて、自分が所有する農地も10,000町歩に及んで“日本一の不在地主”になっていた。『小林多喜二と小樽』に拓銀史と北海道統計書から作成した数字が載っている=表3
 現在色内1丁目の十字街の一角に残る旧拓銀の建物は大正12年に、札幌の伊藤組が施工した鉄筋コンクリート4階建て。1階の交差点に面した部分にギリシャ風の柱が立ち、豪華客船をかたどったホテルからロシア美術館に変身した=写真8

写真7・明治39年の拓銀小樽支店
写真8・北のウォール街に現在も残る旧拓銀支店がロシア美術館になった
表3・日本一の不在地主、拓銀(単位・町歩)