◆他山の石として
道内の都市のなかで小樽と1番似ているのは函館だろう。同じ港町の商業都市というだけでなく、成り立ちや構成、問題点、課題などにかなりな共通点が見られる。「他山の石」ともいう。改めて函館を眺めてみることが、小樽の将来を探ることにもなるだろう。
「小樽は城のない城下町である。この城下町には殿様が何人もいる」と、『都市診断』で書いた。続いてこんな風に描写した。「函館はやせたりといえども一城のあるじである。宗家札幌より由緒ある家格を保持し、目は常に海峡を越え南に向いている。ハイカラな一面、古くさいものに執着する旧華族みたいな風格がある。かと思うと、“浜気質”と呼ばれる大ざっぱな一面も持つ。函館はモダンというより、ハイカラだ。札幌の近代性と違った匂いがある。明治・大正期の近代化が底流に残り、その上を戦後の近代化がかすめた感じ」だと、鉄板の尾錠がついたアケビ細工のバスケットを持ち、イタリアンカットのハイヒールをはいた中年すぎの婦人みたいーと、その容姿をスケッチしてみた。
◆年上の姉さん
こうした姿は、さしずめ年上の姉さん。よく似た姉妹の感じなのだ。気位高いお姉さんは、多分婚き遅れたに違いない。文学の面では、札幌のピューリタニズム、函館のロマンティシズムに対して、小樽にはリアリズムがあるーという。小樽リアリズムは、小林多喜二と伊藤整に代表される。
函館との最大の共通点は、港を軸にした商業が街づくりの基本だったことであろう。日本海航路の北前船が運ぶ荷物に始まり、蝦夷地改め北海道の海産物を集散し、本州方面からの商品を移入する玄関口だった。幕末期の箱館は1807(文化4)年で800戸3,000人の和人が暮らしていた。半世紀後の1856(安政3)年になると、本籍を置く者が1,198戸、9,790人。維新直前の1864(元治元)年で4,200戸、19,000人に達していた。
もっとも明治維新の前年の1867(慶応3)年で3,303戸、14,660人だったという数字も新道史にある。これらは移住を届け出たもので、ほかに一時寄留を含めれば4,252戸、18,609人であり、道南6ケ場所で46,900人、出稼ぎ12,000人といった数字もあって、正確なところは不明だ。しかし、松前藩政期に道南の箱館地区はかなり内地化が進んでいたことは確かだ。
小樽は市街地ができ始め、村並の「穂足内村」になったのが慶応元年。小樽が誕生した時には、函館は既にいっぱしの娘盛りを迎えていたことになる。
◆大火と日銀支店
明治期における人口比の火事発生件数全国1位が函館、2位は小樽だった。函館と小樽の100戸以上焼けた大火について、関正燈著『店祖野口吉次郎の生涯』に比較が載っている=表1。小樽での最大の被害は明治37年5月8日夜の2,481戸。日露戦争での遼陽大会戦の勝利を祝う提灯行列の火の不始末が原因で、現在市産業会館が建っている場所、浅草通りにあった商品取引所近くから出火。北東方面に延焼し、稲穂・色内・手宮地区を総なめした。図1は『ガイドブック 小林多喜二と小樽』にあった焼失地区。
松前時代に本州方面への玄関だった函館を小樽が追いつき追い越したことを、市民の目にはっきりと如実に示したのが日銀支店の建物だった。日本銀行小樽支店が色内町1丁目のメーン道路に面し厳然と立ち、観光客の標的になっている。昭和60年に市の保存対象歴史的建造物に指定された=写真1。
明治42年7月6日に起工して、45年7月25日に完成した建物は総2階、一部が塔屋の3階。1階床下の大部分が地下室になっている。一見して石造風だが、実はレンガ造り。モルタルで石造り風に表面を仕上げたルネサンス風・パラディオ様式とか。赤レンガの東京駅を設計した辰野金吾の作品。辰野は工部大学校第1期卒業生。
銅板屋根のドームが描く曲線が魅惑的で、異国情緒をもたらし格好な画材だと好評な半面、「日本郵船と共に大家の駄作」と、画家の千葉七郎が自著『小樽の建物』でこきおろしている。
◆函館と逆転
日銀は明治26年4月に札幌・函館・根室・室蘭の4出張所と同時に小樽派出所を設ける。明治26年当時の日銀小樽出張所は、木造2階建てのしもたや風だ=写真2。28年7月になって、函館出張所が支店に昇格し小樽派出所を所管する。この時点では全国的に見れば、小樽は札幌より函館の配下に置いた方が適当だと考えられていたことになる。
30年になって小樽派出所は国庫・公債に為替の銀行手形再割引の業務を始め、12月に出張所に昇格する。そして10年後の40年に至ると、小樽出張所が支店になるのと引き換えに函館支店が出張所に格下げになり、函館と小樽の関係が逆転している。
小樽支店の新築は、当時の状況を極めて現金に反映した。日露戦争後の小樽経済の大躍進ぶりが、それまでの日銀本店の予想をはるかに越えたものだったことを物語る。明治45年、裁判所跡に日銀支店の新築が始まった=写真3。
北海道経済の中心が函館から小樽に移り、さらに北の札幌に移動するのは統制経済が強まる太平洋戦争になってから。全道を統括する札幌支店開設は昭和17年で、つい最近までは小樽が名実共に北海道の経済的な中心だったことを、日銀支店の建物が語りかける。
◆内陸農業に目を向ける
函館は中国向け海産物を主体に、コンブや硫黄・石炭などを輸出していた。これに対し小樽は玉葱・リンゴといった農産物輸出に力を入れ、横浜・神戸に次ぐ全国3位の輸出港になっていた。道産米100万石収穫祝賀が催された大正10年の銀行預金・貸出状況が表2。
道庁がある札幌と、躍進めざましい小樽、老舗の函館の3市の比較である。銀行の数は小樽19、函館16に対して札幌は10と少ない。預金総額に占める官公庁預金の比率が小樽3%、函館6%なのに札幌が16%と高いのは道庁があるお陰だ。定期預金、手形貸付は小樽が断トツなのは、それだけ一般商業金融が盛んな証拠になる。預金規模から見れば、小樽は札幌の1.5倍であり、ゆとりを見せる定期預金と活発な経済活動を反映する手形貸付が3倍になっている。
姿を見せなくなったニシンはあきらめ、開発が進む内陸部の農業に目を向けた小樽商人は、農産物を担保にした銀行貸付と荷為替を努めて利用した。商人自らが農場を積極的に経営し、地主として活動する際にも不動産担保の金融が大いに利用され、ますます銀行の活動範囲が広がった。
◆北海道のウォール街
利に聡い銀行が全国から小樽に集まった。20にも及ぶ銀行の本支店が軒を並べる様子が、世界の金融中心地もかくやと思わせたから、「北海道のウォール街」なんていう異名が付けられた。
“北海道のウォール街”というと、すぐに使われるのが写真4だ。市博物館でこの写真をもとに有名画家が手描きした、色付きの古い絵葉書を見た。「昭和7年の緑山手通」の説明が付くこの写真は、戦前に早くも歴史資料とされていた。道建築士会編『北海道の開拓と建築』の中で、亡くなられた地元郷土史家の越崎宗一氏出典とあった。だれが何のために撮影したものかは不明だが、越崎さんなら大丈夫。写真だけが自分で走ってしまった、という1つの例証になる。
当時の世界経済はまだ英国が中心だったのに、ロンドンの商業中心地シティでなく、新興めざましい米国・ニューヨークを思い浮かべ、ウォール街としたセンスにも新し物好きの小樽っ子気質が読み取れる。
斜陽都市といわれた時代は去った。大きいことが良かったのも過去。似たような問題を抱えて悩んでいる函館と姉妹感情で、手を取り合ってみるのも小樽の1つの道かも知れない。