寿原一族

◆金曇大火がきっかけ

 東南アを中心に世界中に強力な経済ネットワークを張り巡らす華僑になぞらえた「樽僑」という言葉は今では死語になっているようだが、これは戦後“斜陽都市”の代名詞みたいにされた小樽から、札幌を重点に道内各地に打って出た小樽商人のエネルギーへの畏敬の念からの造語だった。
 「あくまで小樽の寿原」を自負している寿原一族の戦後の軌跡を見ると、樽僑第一号の名に恥じない。1969(昭和44)年度個人所得税を見ると、小樽税務署管内の第1位は板谷商船社長板谷宮吉の3,122万円。寿原商店社長の寿原外吉は2,410万円で3位だった。それが5年後の49年度になると、板谷宮吉が全道1位、2位は寿原外吉の4億3,800万円だった。
 いかに高度成長経済下とはいえ、2人の小樽商人がそろって個人所得税額を5年間で10倍と膨脹させていた背景は何だろう。斜陽といわれながら、小樽経済がなお十分な底力を持っていた、というのが1つの理由ではないだろうか。
 外吉は小樽商工会議所議員になった昭和9年に、政友会系の公正クラブから小樽市議に出て3期連続当選。翼賛選挙に変わり、英太郎の婿、九郎に譲っている。戦中の商工経済会時代は小樽支会参与、21年9月から副会頭を9年、続いて4期10年の15代会頭と、小樽商工会議所との縁はまた格別に深い。
 外吉会長のスハラ商事は昭和16年刊行の『寿原商事50年史』に続いて、1981(昭和56)年に『スハラ商事百年史』を出している。富山県砺波郡福岡町の菅笠販売商だった寿原弥平次が、1881(明治14)年5月の小樽金曇町大火を聞いたのが行商先の秋田の宿。「商売物の茣蓙と瀬戸物が売れる」と、早速やってきて有幌海岸に店を開いたのを開業としている。
 福岡町は万葉歌人大伴家持の開基と伝えられる、永い歴史がある、古い小矢部川沿いの市場町。川沿いの湿田に菅を植えて菅笠を作り、当時の全国生産の6割を占め、茣蓙、筵に瀬戸物を扱う寿原家は町1番の老舗だったといわれている。

◆3本の矢を実行

 西南戦争では、戦費調達のために2,700万円もの紙幣を印刷発行した。このため金銀の正貨とは換えない不換紙幣だったから、民間に流通する銀貨との交換率が下がっただけ購買価値が減ることになる。銀貨1円について12年に1.32だったのが13年1.48、14年1.815と下落した。
 江戸時代からの伝統的な商法は、西南戦争による紙幣インフレと凶作による貸し倒れに米騒動が加わり、不況からの根本的な脱却に迫られていたのが小樽進出の理由だった。最初は1に丸3つ“イチ3つ星”の屋号を持つ萩屋との共同経営だったが、1年で独立した時から丸は1つの“イチマル”の屋号を使う。イチマルはなんでも1番の気持ちと、何事にも満ち足りるの意味を込めたものだという。

表2・小樽の大火
(小樽市史、川嶋康男「小樽雪舞」から作成)

 600戸を焼いた火事をきっかけに来た小樽で、17年の有幌、18年に港町、20年には入舟と、新店舗を構える先々で火事に見舞われる=表2。大半の商人はこの辺でへこたれてしまうが、弥平次は毛利元就の「3本の矢」の古事にならい、まず妹婿の砂土居猪之吉を呼び寄せ、次に弟の重太郎と寿原3兄弟による、後の小樽財閥寿原一族の濫觴ともいうべき身内で固めた共同経営を28年1月に始める。明治28年ごろ猪之吉、重太郎、弥平次の寿原3兄弟が並ぶ写真21が『スハラ商事100年の歩み』に載っているが、明らかに同一と思われる右側の弥平次のさらに右に要太郎が入っている写真が『スハラ食品77年の軌跡』に載っている。
 明治30年当時の寿原合名会社色内町店舗の写真が50年史に載っている。石づくりの倉庫の前に半天姿の店員が並び、馬車に商品の箱を積み込んでいる。高く掲げられた看板に、寿原合名会社のイチマル一○印が輝いている=写真22

写真21・祝津の青山別邸
写真22・道開拓村の青山漁場

◆超インテリの新知識

 重太郎は石川県立専門学校法学科から東京高商1期生としてイタリア語を学び、横浜デル・オーロ商会の通訳兼書記になってワイン、コーヒーなどの輸入業務をしていた新知識の持ち主。学資を出してくれた兄に呼ばれた。横浜 → 函館 → と船でやってきた小樽は、日清戦争直後の好況に沸いていた。
 新しく設立した会社を新式帳簿で運営する狙いもあったが、ともあれ、加越能開耕社の創立事務所支配人として幌内原野に赴く。この会社は弥平次ら4人が代表者になって旧加賀藩の在樽有志が集まり、幌内原野500万坪を開墾しようとした株式会社だった。重太郎は1年足らずで小樽に戻ったが、40年の同社解散時まで役員を勤め、その後一族の安定財産になった寿原農場に続けている。
 幌内原野は2つの川に挟まれ、土地は肥えていても毎年のように水害に見舞われ、泥炭地なので道路を作れず、食料品などは舟で運ぶような不便な土地だった。横浜時代の友人から「外国に比べて北海道の土地は恐ろしいほど安いから、将来必ず得する」といわれた重太郎は、早くから土地に関心を持ち、日清戦後の小樽をはじめ、師団ブーム前の名寄市街地払下げなど将来性の判断力に長け、土地売買で一門の財政を支えた。

◆一族の分業化

 合名会社イチマル寿原商店は和紙綴りの大福帳から罫引き洋紙の洋数字簿記に変え、巻きタバコ・口紅・缶詰といった舶来品を並べて小樽のモダン化を進めた。開業資金は弥平次7,300円、猪之吉6,300円、重太郎1,000円を出し合った。31年正月に3年間の純益を分配し、それぞれが独立する。
 寿原本家の商売と重ならないよう、猪之吉はスハラ産業・寿原薬粧の始祖となり、長男の英太郎は小樽市長になった。重太郎は寿原食品の前身、小樽市場会社を40年に始める。創立委員に笠松千太郎、京坂与三太郎、佐々木静二、稲積豊次郎ら共成関係らが名を連ねている。佐々木静二社長、寿原重太郎常務、稲積豊次郎監査役らの体制でスタートした。
 大正14年に転機が訪れる。お荷物になった鮮魚部分を小樽魚菜市場に譲り、長女の婿村山美喜生が専務に入る。大正はなお古き時代だったことは、商事百年史にある和服に前掛け姿の店員の写真23が物語る。当時はまだ珍しかったタイル張りの外壁に機能的なガラス窓がある3階建て。成田幸一郎が設計したのがこの年の寿原商事本社=写真24
 小樽市場会社を寿原食品と名を変えたのは昭和5年で、金解禁による物価下落が不況を招いていた。一方、重太郎の長男は東大医学部を卒業、脳波分析学の泰斗として中央で活躍した。

写真23・大正時代の店員姿
写真24・大正14年の寿原商事
(設計 成田幸一郎)

◆寿原の活躍

 弥平次の姉の孫が戦後に小樽選出の国会議員になった寿原正一。弥平次の娘婿島田純一郎は民政党を応援したので、政治嫌いの弥平次と合わず。英太郎の娘婿が北洋相銀初代社長の九郎、スハラ産業・薬粧の流れに。スハラ食品は村山裕社長、喜一専務の時代に移る。
 このように系図をたどって行くと娘婿が目立つ。“寿原は養子で栄えた”ともいわれる所以だが、一族発祥地の富山では後継者がいても養子をとるのが慣習になっているので、母村の風習通りにやっているだけなのかもしれない。
 小樽経済の隆盛期に寿原の名を挙げたのが重太郎。「アイディアは良かったが、商売は弥平次・猪之吉・英太郎・外吉に負ける」といわれながら、“小樽の渋沢翁”のニックネーム通り、新会社発起人に名を連ねること10数社。老いても青雲の志を忘れず、常に前向きに物事に取り組んでいた。

◆北洋銀の創設者

 重太郎は5尺に満たない小兵ながら、外国語を操る超インテリ。新鋭実業家代表として地方政界に登場したのが、明治32年の手宮埋立地の北炭払下問題。政治団体は茶話会に属し、その年の第1回区会選挙から区議、道議と続く。色内町の実業家を中心にした小樽実業会を地盤に、大正元年に政友会から衆院選に立ち、9年から政友会公認の道議を3期勤める。故郷の小矢部川にちなんで俳号を矢水とする風流人でもあった。
 スハラ食品前身の小樽市場会社、北洋銀に成長した小樽無尽会社と、重太郎が創設した組織は大きく伸びている。
 スハラ商事が札幌出張所をつくった昭和29年当時の札幌の人口は30万人。翌年周辺三町合併で41万、札幌市の爆発的膨脹が始まる。進出当時の札幌で同業の問屋は池内・今井ぐらい。「小樽は問屋が威張っているが、札幌の小売りは上座に座る」と、戦後流通革命の兆しを早くも悟り、小売りサービスに重点を移す。
 外吉社長が札幌証券取引所の2代目理事長になったのは設立の翌26年。3代目の今井道雄にバトンタッチするまで14年間も続ける。ほかに北海道硝子卸商業協組理事長から全国板硝子卸商連合会の副会長と、本業を支える仕事にも精を出す。
 国内最大メーカーの旭硝子との結び付きが、建築材料として戦後急増したガラス販売に力を発揮する。旧財閥三菱系統以外で最大の株主となったのがきっかけだが、その株も昭和8年に底値で買っていたというところに、小樽商人の先見性を観る思いだ。旭硝子北海道一手取扱店となって、九州の渡辺、東京の上野と並ぶ日本一の硝子商にのし上がる。
 小樽商人が札幌になだれ込んだのは34~35年。スハラの札幌支店昇格が38年。3年前既に小樽本店よりも札幌出張所の売上の方が上回っていた。
 外吉の名前自体が、寿原家では開祖の故郷を重要視していたことを物語る。富山県砺波地方の風習によると、丑年生まれを身内にすると家族に不幸を招く、という。そこで身内でないという意味を込めて“外吉”とか“外代”と命名するそうだ。
 水天宮横東雲町の高台に、石塀に囲まれた旧寿原邸が建ち、小樽観光の1ポイントになっている。緑のトタン屋根平屋の母屋は玄関の軒装飾に当時の名残が残るが、総体の感じは古めかしさばかり。門から入った石組が年代を思わせる=写真25

写真25・水天宮横東雲町の高台にある旧寿原邸