◆看板や街頭風景

 写真15と16は同一の写真の左右を別々に拡大している。「手宮方面、第三火防線から水天宮の山を望む色内町大通り」との説明がある。15の馬車が行く道路に面した建物は、明治33年11月に開設した拓銀支店。その道路向かいが16。電柱の「東京荷札 元売り捌き所 野沢商店」の宣伝文字が、親子連れの和服姿と時代的にマッチする。「雇人口入所浜野」「下宿屋大家九平」といった看板に、カネヨの看板も電柱の陰に見える。この亀尾呉服店の角を曲がると駅、その先に靴の看板も見えるが、駅側からも見えるように2枚付いていたとか。

写真15・明治期の第3火防線から水天宮の山を望む色内町大通り、拓銀前を行く荷馬車
写真16・右の2階土蔵造りは日本商業銀行支店

 北海道開拓70年を記念して、昭和12年7月7日から8月25日まで小樽市主催の北海道大博覧会が開かれた。小樽公園と港の埠頭が会場になり、水天宮の石段から公園通りを越えて公園会場を見たのが写真17。50万円に及ぶ予算を使い、190万人が入場した一大イベントだった。写真18は同じ場所から見た現状。町のたたずまいが半世紀前とさほど違っていないのが、歴史をおもわせ嬉しくなる。

写真17・1936年7月開道70年記念北海道大博覧会へ小樽会場になった小樽公園を水天宮石段から公園通り
写真18・左と同じ場所
から見た現状

◆保安条例が埋立てに

 小樽の第1次土地ブームは明治20年12月の保安条例がキッカケになった。明治政府は条約改正案に反対した民権派を皇居三里外へ3年間追放した。この時、戦後日本の政界を牛耳ったワンマン吉田茂の父竹内綱、大江卓、岡野知荘に、岩村道長官の弟林有造ら、帝都から追放された自由党員が避難して来て、小樽沿岸の埋め立てによる土地造成を始めた。
 寺崎至が名義人になって旧船改所跡に港湾修築事務所を設け、岩村の親戚筋に当たる小野修一郎が会計になったから、メンバーに不足はない。ましてインテリ自由党員だから、土木工事もお手の物だった。
 当初計画では、坪平均6円で分譲と公告した。2年後に埋め立て地を引き渡したら算盤も合って、3万1,000坪16万円の予定が3万8,000坪を分譲。立派に埋立て事業の有利性を証明したので、以後埋立ての競願が続き、それが政争の火種になる。

◆山田ファミリー渡辺兵四郎

 29年に小樽商業会議所がスタートした時の初代副会頭、渡辺兵四郎は秋田県能代生まれ。1857(安政4)年商用で秋田にやって来た初代会頭山田吉兵衛の養父兵蔵に連れられ、15歳で小樽に来た。兵蔵に代わって穂足内村の名主も勤めたというから、さすが。センダンは双葉より芳し、との諺通り。後年の活躍ぶりは早くから期待されていた。
 独立は32歳と少し遅く、山田家の漁業のほか、値は安く重くてかさ張る荒物商売を営む。明治13年に山田家総代理人になって、ニシン網の改良を手掛けたりして漁業組合頭取・水産組合長と、業界の舵取り役を果たす。23年11月に第1渡辺色内町、25年5月に第2渡辺稲穂町と精米所を始め、32年には小樽精米と改称している。商売から政界に転じ初期区会議員から始まり、35年道会議員となって副議長までやってから41年に衆議院議員。45年、5代目の小樽区長に就任し、長い間もめた埋立て問題を解決した。「一布」の号でよく書道にも励んだ山田ファミリーの1人。
 29年設立時の議員名簿で、兵四郎は吉兵衛と同じ水産業。吉兵衛はほかに和洋太物扱いをしている。高級な絹織物を呉服といい、実用品の綿や麻の織物が太物。吉兵衛、兵四郎共に、早くから大衆路線の商売をしていたことになる。 

◆北海道新聞の源流を創る

 明治15年に自宅で活版印刷所を始めた吉兵衛は、道庁所有の札幌活版印刷所に目を付ける。当時の舶来品は高価で個人では到底手が出るような代物でなかった。開拓使も後期になり、官営企業を民間に払い下げる政策を取り始めた時期だったが、藩閥・政商がめぼしい物件を狙って暗躍していた。
 そんな時代に、小樽から札幌に進出したばかりの山田が激しい競願争いに勝ったのは、なぜだろう。それ相応の事情があったのか。貸下を受けた印刷機を使い、札幌でタブロイド判4ページの週刊『北海新聞』を創刊したのが20年1月=写真19。900部印刷したうち、300部を新設されたばかりの道庁に買ってもらう約束だった。改進党の機関紙『郵便報知』の記者から、道庁会計課に勤めていた阿部宇之八を主筆に迎える。

写真19・札幌で印刷発刊された「北海新聞」創刊号1面

 宇之八は慶応義塾出身、経営まで一切を吉兵衛から任され、この年10月に北海道毎日新聞と改題して日刊にした。この時、北海道毎日新聞を印刷した札幌活版印刷所の絵が写真20。道毎日は34年に札幌の競争紙北門新報、北海時事と合同して「北海タイムス」になり、戦時中の統合で生まれた北海道新聞の中核になった。このため、北海道新聞は源流を山田吉兵衛の北海新聞に求めて、昭和37年に創業75周年記念行事を催した。
 宇之八は合同して誕生した北海タイムスの社長になった。大正2年には札幌区長にもなり、三男謙夫は北海道新聞社長や戦後設立した北海道放送HBCの初代社長をした。歴史的に見れば、戦後華開いた北海道マスコミの草創期を吉兵衛が担っていたことになる。

写真20・北海道毎日新聞の印刷所

◆北タイ・樽新と共に

 小樽初の新聞は金子元三郎が自由民権派の中江兆民を主筆に据え、24年4月に色内町で発行した『北門新報』。フランスから帰国後、民権論を唱え自由党機関紙「自由新聞」主筆として活躍した中江兆民を看板にした北門新報は、道庁主導の道政に対する小樽商人の心意気を見せた。
 金子元三郎の父は早くから松前で漁業を営んでいて、明治17年になって天塩、焼尻、天塩に漁場を設けた。福山が徐々に衰えて天塩での漁場経営に不便になったので、18年に小樽の色内に移った。21年に父が死んでからはニシン漁場だけでなく、海運、海産物の販売、鉱業、銀行、農場などにも手を広げる。
 園田道長官の娘婿になり、北門新報では憲政思想の普及に努め、初代小樽区長になったのが30歳。このころ、夫婦でスキーを楽しむ姿が区民の目を惹いた=写真21。37年から大正4、6年と衆議院議員に連続当選、憲政会の支部長、多額納税貴族院議員などと小樽の元老挌を勤めた。

写真21・大正初期、夫婦でスキーを楽しむ金子元三郎区長

◆小樽新聞を創刊

 「拓殖事業を翼賛し兼ねて小樽港商業上の機関となり、報道を通じて世論を喚起する」のが新聞発行の目的で、2,000部印刷し小樽から全道に向け発言した。25年の札幌大火で毎日新聞が発行不能になったので、渡辺道長官の勧めもあって札幌に移る。留守で空いてしまった小樽ではやはり独自の日刊紙が欲しいとなって、『北海民燈』が札幌から移って来る。このときに山田吉兵衛、渡辺兵四郎、高橋直治ら会議所と深い関係を持つ小樽商人が100円ずつ出し合い、資金援助した。そこで北海民燈が標題を改め、『小樽新聞』となったのが27年11月だった。

◆経済記事の小樽新聞

 小樽新聞の経済記事は定評があり、特に商況欄は比べ物が無かった。北海タイムスが政友会系と見られたのに対し、樽新は革新的な論調と近代化した設備を持ち、積極的な各種事業などに取り組んだ。昭和12年に札幌の建設業者地崎宇三郎が経営に参加し、釧路新聞や網走3紙の系列化などを進めた。統合後の北海道新聞では、北タイと並ぶ樽新系としてかなりな社内勢力を戦後しばらくの間、維持していた。
 北海道毎日新聞記者だった上田重良が、宇之八の出資分を返済して小樽新聞社長になる。ほかに商況や物価報道を主体にした『小樽商業新報』もあったが、道内の新聞界は北タイ・樽新の2大紙相乗時代が戦時中の統合まで続く。2紙共に吉兵衛が創刊に深く関係し、小樽商人が構成の中心に位置していた。商法の基礎に、情報・通信の占める重要性を早くから悟っていたからだ。
 確かに小樽の繁栄は日清・日露の両戦役から1次大戦など、市外からの刺激がうまく働いた結果だったからかもしれない。しかし、常に新しい情報を求めその時代に沿ったチャンスをいち早く捕えたうえで、勇敢にチャレンジした先輩たちが存在した。
 運河の側に立っていた旧小樽新聞社の建物は戦後暫くは地元の商社が使っていたが、現在は札幌市厚別区の北海道開拓の村に移され、「札幌軟石を使った木骨石貼り構造3階建ての建物で、明治の新聞人の誇りを感じさせてくれる」という説明で、野外博物館に陳列される=写真22。緑の木々に囲まれ訪れる人々に歴史を物語っているが、運河の側にあった方が良い。1階の壁に朱色がすっかり褪せてしまった社旗が掛かっていた=写真23

写真22・開拓の村にある小樽新聞社
写真23・小樽新聞の社旗