◆山を崩して埋立てに

 若竹トンネルは第3まであって、1、2号は後に切り割りの陸橋にされ、3号トンネルは大規模に山そのものを削り取った。札樽トンネルの手始めになった若竹第3トンネル=写真12の工事は13年1月8日に始まり、11月28日の運転開始式にようやく間に合わせた。札樽トンネル第1号は水天宮裏、2号が山の上町。港最南端の平磯岬の下を潜る3号は、山を崩した土砂を築港地区の埋立てに使った=写真13。この平磯岬の上に銀鱗荘がある。

写真12・第3若竹トンネル
写真13・札樽トンネル第1号は水天宮裏、2号が山ノ上町。
港最南端の平磯岬の3号トンネルの山は崩されて、築港地区の埋立に使われた。
平磯岬上に銀鱗荘

 小樽築港地区は国鉄時代は保線区に検車区、客貨車区も置かれた巨大な鉄道基地だった。車両が1度に30台も入る扇状機関庫があり、何本も並んだレールの先には岸壁に横付けした船に石炭を自動的に積み込むトランスポーターなどが敷設され、壮観だった。写真14は昭和20年代の築港地区。港内にはかなりな大型貨物船が停泊している。

写真14・石炭積込用トランスポーターもある昭和20年代の築港地区

 40年代前半の航空写真15を見ると、レールと積み出し施設は残るが、海岸部は外材の貯木場に変わっている。写真16は平磯岬上の銀鱗荘から見た、現在の築港地区。レールが取り外された跡は何もない空地となり、55ヘクタールの築港ヤードは小樽に残された最後の大型開発地とされ、JR北海道、ニチイなどによるショッピングセンター構想が進む。

写真15・昭和40年代の築港地区
写真16・平磯岬、銀鱗荘から見た築港ヤード跡

 築港駅東側の若竹貯木場は面積21ヘクタール、道内最大の水面貯木場だった。南方輸入材が減少したので、次に考えたのが大規模海洋レジャー施設。貯木場の北側7ヘクタールに小樽港マリーナを建設したのが65年。レジャー用ヨットが係留されている岸壁に、石原裕次郎記念館がオープンしている=写真17。父親が船会社の関係で石原慎太郎・裕次郎兄弟が小樽で少年時代を過ごした縁もあって、歴史・文化の共通点に、共通財産としての作家・タレントを持つ神奈川県逗子市のライオンズクラブと姉妹クラブの提携を結んでいる。

写真17・小樽港マリーナにオープンした裕次郎記念館

◆手宮線

 旧手宮駅からJR南小樽駅までの2.6キロが旧手宮線として廃止されたのが1985年。運河問題の反省もあって、会議所はじめ7団体が国鉄に跡地保存・再利用を求める「活かそう手宮線連合会」を組織した。旧手宮駅構内の北海道鉄道記念館構想が具体化するなかで、レール跡を会場にした野外写真展が開かれていた=写真18。札幌市厚別区の野外博物館「北海道開拓の村」には、旧手宮駅長官舎がある=写真19

写真18・旧手宮線の野外写真展(1994年9月)
写真19・「開拓の村」に移された手宮駅長官舎

◆小樽駅の駅名変更

現在のJR小樽駅は昭和9年12月、木造から近代的な鉄筋コンクリート造りに改築された道内駅舎の第1号だった。左右対称、ベージュ色タイル貼りの建物は改札口から地下道を通ってプラットフォームに出るようになっていて、線路上に跨線橋がないというニュースタイル。東北方面への玄関口だった東北本線始発の上野駅と似た外見も、また小樽っ子の自慢の種だった=写真20

写真20・現在の小樽駅

 小樽の駅名変更は鉄道の歴史をなぞっている。誕生した時は開拓史による官設鉄道だったが、その後北海道炭礦鉄道会社の経営になっていた手宮線と関係なく、明治37年10月に全線開通した北海道鉄道会社線の終着駅だった。函館始発の私鉄駅として前年に開業した時の名は「小樽中央」。翌年に駅舎が高島郡内にあるのでと「高島」に改名、さらに今の南小樽駅まで延長して炭礦鉄道に接続した38年に「中央小樽」と変更する。石川啄木が小樽日報創業に参加しようと札幌の北門新報をやめて小樽に来た時は中央小樽駅長の官舎に泊まっている。
 北海道鉄道会社は32年10月に創業総会を開き、小樽から高橋直治や金子元三郎らが株主として参加した。炭礦鉄道が国有になったのは39年10月、北海道鉄道が42年5月だった。大正9年になって、ようやく中央小樽駅がただの小樽駅になった。