◆始めは舟運

 商人の町小樽が生まれるには、人と物を運び込む輸送ル─トが必要だった。明治5年の新橋─横浜、11年の神戸─京都に次いで、日本3番目の鉄道が13年に手宮─札幌間に誕生したことが、商港小樽の成長に弾みを付けた。
 開拓使が本州方面との輸送手段としたのは、江戸時代と同じくまずは船だった。東京→函館→小樽と繋ぐ航路に黒田丸や玄武丸といった開拓使付属汽船を6年ころから就航させた。4月から10月まで月1回程度、ほぼ定期的に往復した。幡竜改め雷電丸、樺太改め矯風丸などが小樽と樺太、千島方面の間を連絡した。三菱会社は13年9月から函館と小樽を結ぶ定期船を始め、生産者と直接契約して荷為替を組み需要地へ運んだのが小樽商業の発展に大いに役立った。
 この時期の札幌への輸送手段は石狩川を利用する舟運であり、弘明丸(6トン)と豊平丸(7トン)が篠路太から創成川を溯り、あとは馬の背に乗せて本府まで運んだ。こうした事情の下で鉄道建設が進められた。

◆鉄道目的は石炭輸送

 鉄道敷設の第1目的は6年に発見されていた幌内炭田の石炭運び出しだった。東京方面の工業化を進めるために必要な石炭だったから、太平洋岸側から運んだ方が有利なことは明らか。当初は小樽より室蘭が積出し港として優先していたのを、小樽の手宮に持ってきた第一の功績はクロフォードだとされている。
 アメリカ生れの鉄道建築兼土木の開拓使顧問として、11年12月13日に3年契約でやって来た。「将来北海道鉄道と連絡する煤炭運輸用の鉄道敷設」が条件だった。石炭輸送だけなら石狩川水運で賄える。小樽の手宮と札幌を鉄道で結べば、人と物の輸送力が増して運賃収入で建設費を賄えるはず、という計算もされていた。
 煤田開採費から石狩河口港の建設予定費を流用すれば、鉄道は造れると踏んだ。さらに始めから鉄道といわず、まずは馬車道の建設とした。札樽間の難所は今でも崖崩れで危険な張碓付近。アイヌ語で「魔神が住む場所」を意味するカムイコタンと呼ばれ、険しい崖が海岸まで迫る斜面に人馬を通す道を造るのは大変だった。
 手宮鉄道起点の手宮駅前広場にクロフォードの銅像が建ったのは昭和31年6月。地元の手宮連合町内会が音頭取りし、張碓のカムイコタンでの測量中の姿を描写している=写真1。像は10年後に北海道鉄道記念館内に移され、現在は市立の交通記念館として工事中なので96年春予定の完成までお預け状態になっている。

写真1・旧手宮駅前に立っていたクロフォード像

◆突貫工事だった鉄道敷設

 初の札樽間道路は工部大学校教授のペリーが85万4,000円と見積もった経費を僅か5万円で完成させたそうだ。難所だったカムイコタンに通した車道=写真2=に、アメリカから運んだレールを敷いて汽車を走らせた。この幌内鉄道が小樽発展をもたらしたのだから、クロフォード様さまといえよう。
 明治13年9月28日にアメリカの帆船ドベイ号が、クロフォードがアメリカから買い込んだ鉄道建設用資材を積んで、小樽港手宮桟橋に到着した=写真3。資材の陸揚げは11月4日まで続き、鉄道完成が11月末だった。敷設作業を進めながらの資材の陸揚げは、いかに突貫作業だったかの証拠だろう。

写真2・道が付いたカムイコタンの崖

写真3・アメリカの帆船ドベイ号が手宮桟橋に着いた

この年の小樽港鳥瞰図が、小樽市博物館のガラスケース内に展示されている=写真4。勝納河口から手宮桟橋にかけて1本帆柱の和船がずらりと停泊し、市街地の家並みが続いている極彩色の絵図だ。
 このころの手宮駅構内を写した写真5の中央に、2階建ての煤田開採事務掛出張所が見える。手前は手宮鉄道のレールで、沖に突き出た桟橋の先に2本帆柱の大型洋式帆船3隻、ほかに和船も何隻か停泊している。

写真4・市博物館展示の
「小樽港鳥瞰図」
写真5・明治初めの小樽港

◆手宮桟橋

 写真6は『明治・大正図絵第五巻』(永井秀夫ら編、筑摩書房刊)に載った、北大図書館所蔵の「明治初年の小樽手宮桟橋」風景。桟橋は大型化、延長工事中だろうが、手前の船がタグボートに曳航されている様子からすると、かなり後の撮影だろう。

写真6・明治初めの小樽港

 トベイ号は義経、弁慶とアメリカで既に命名されていた機関車のほか、8両の客車も運んで来た。明治14年に天皇お召し列車にされた最上等車は、外部中央に「開拓使」と漢字で書かれた上、軒下には《Poronai railway of Hokkaido》とローマ字が描かれていた=写真7

写真7・軒に「Pronai Railway of Hokkaido」のローマ字が描かれた開拓便号
明治14年の天皇御召列車になった

 張碓と並んで、札樽間の難所は海岸まで突き出た山裾を潜り抜けるトンネル工事だった。手宮を出てから最初のトンネルは若竹。若竹第一トンネルから出て入船の陸橋の上にさしかかった弁慶号がしきりに白煙を上げているシーンは有名だ=写真8
 開拓使の事業報告資料に使われた写真で、北大図書館の北方資料室に所管されている。西部劇映画に出てくるような陸橋は、木材を組み合わせており、橋下の民家とたたずむ人の姿に当時の小樽住民の生活ぶりがうかがわれる。撮影したのは最初にこの部分の試運転が行われた13年10月24日。

写真8・若竹第一トンネルから入船陸橋にかかる弁慶号

◆高架桟橋

 鉄道院は明治44年に石炭積出し施設として手宮海岸に、幅21メートル、長さ287メートルもの高架桟橋を建設した。高さからすれば3階建に相当する巨大な建造物だった。手宮の崖上から見たのが写真9。横付けしている石炭輸送船がオモチャみたいに見える。

写真9・上から見た高架桟橋

 写真10は小樽の高架桟橋だと史談会編『写真集小樽』にあるが、同じ写真が『明治大正図絵』では室蘭桟橋とされている。似たような構造だったそうなので、どちらが正しいか分からないが、背景などから判断すると室蘭のような気がする。
 写真11は『百年の小樽』(小樽市刊)の「小樽港名物だった高架桟橋」の一部。左側に工事中の桟橋部分が写っていた。手前の汽船がとてもスマートに見える。

写真10・高架桟橋
写真11・小樽港名物だった高架桟橋