小樽市は、明治維新の3年前、幕末期の1865(慶応元)年に「小樽内場所が村並になった」時を開基としている。だから既に1965(昭和40)年に開基100年を迎えた。「先人の足跡を想いおこして、その雄図をしのび、おのおのが現時点に生きる市民としての歴史的役割を確認するため、エピソードや写真でわかり易く100年の歴史を表現した」と、当時の安達与五郎市長が序文を書く記念誌『100年の小樽』を発行。地元郷土史家の越崎宗一らの随筆に、古写真類もたくさん入っている本格的な記録集である。
 わが商工会議所はそれより遅れること30年余、1895(明治28)年に誕生した。だから、創立100年目に当たる1995(平成7)年の8月25日に100周年記念式を催し、この100年史を刊行した。

◆村並になる

 まずは小樽が「村並になる」とはどんなことを意味するのか、から始めよう。
 先住民族アイヌの住んでいた島アイヌモシリを、当時の日本人は蝦夷ケ島と呼んだ。そこへやってきた本州に住む、和人と呼ばれる日本人のグループは、種子ケ島に漂着したポルトガル人が持っていた銃を瞬く間に自分のものにし、在来の武田騎馬軍団を長篠の戦場に葬った信長を先頭に、戦国時代の激烈な生存競争を武力で生き抜いて来たような武士集団だった。自給自足の完結した環境で暮らしていたような先住民は、力づくでは到底勝負にならなかった。
 米本位制の幕藩体制下の松前藩だったが、米の採れない蝦夷地だから、先住アイヌとの商品交易を主たる財源にした。蝦夷ケ島が江戸幕府支配の日本に組み込まれた最初の時から、産物交換、交換経済、物を造るのでなく他人が生産したものを売る、つまり商業がこの島の経済の基本だった。
 家臣への給与が土地給与でなく先住民と貿易する権利、という特殊な形が松前藩の「場所制度」。現在の小樽市域には小樽内と高島の2つの場所が設けられ、現在は妙見川とも呼ばれるオコバチ川が両場所の境界だった。
 藩の出張所としての運上屋に、場所経営の全権をまかされた商人の請負人とその手代らが生活し、本州から出稼ぎに来た和人を使って漁業を営んだ。
 関ヶ原の戦いが行われた16世紀末から17世紀初めにかけての慶長年間に、当時は福山と呼ばれていた、今の松前町に住んでいた八木勘右衛門がオタルナイに来て漁業をしたのが、和人の出稼ぎ第1号だという。

◆藩政の変更

 1855(安政2)年箱館開港の翌年、幕府が蝦夷地を再度直轄にした。南下を図るロシアへの対抗策に迫られた幕府は、蝦夷の和人化、つまり“内国化”を進める。そのため自藩の実情を幕府に知られてはまずいと、積丹から奥地での和人越冬を禁止していた従来の松前藩の政策を変更する。
 「忍路、高島およびもないが、せめて歌棄、磯谷まで」と歌う江差追分の歌詞は、夫を慕う妻の心情を歌ったとされるが、本当は神威岬を和人地と蝦夷地の境界にしていた藩政への恨みの表現、とも考えられる。
 幕府から奥地への移民永住許可が出たことで、道南に限定されていた和人はニシンを追って日本海岸を北上する。それまで店といえば季節労働者を相手にした浜の食べ物屋ぐらいだった小樽に、衣服・米味噌・雑貨などを扱うような商店が出現。忙しく歩き回る商人の姿が、町の中に見られるような時代になる。

◆安政期の小樽

 このころの小樽を訪れ、挿絵付きのルポルタージュをものしたのが、北海道の名付け親とされる松浦武四郎。『東西蝦夷山川地理取調紀行』の表題で出版した西蝦夷日誌第四編に、安政3年のヲタルナイの現状を次のように描写する。
 ─出稼漁夫の家が12軒あるアリホロ(有幌)、13軒のノブカ(信香)を過ぎて、運上や前から弁天社の後ろを回り、浜伝いに勝納に来ると橋が架かり人家が多い。この辺では1軒で31人50人と大掛かりに出稼を遣う番屋が続く。番屋に板作りの倉や稲荷社があるアツトマリ(厚泊)やクマウシ(熊碓)アサリ(朝里)を通り、さらに人家が続く海岸を行くと、カモイコタン。─
 「弁天社より眺望」の説明付き、中央に大木が2本枝を広げる挿絵は、遠く石狩湾越えに暑寒別岳から雄冬岬を望み、札幌側の右手には舟泊がある朝里、左手はヲコハチ河口と手宮に数隻の帆船が停泊する。立石がある海岸に運上屋が建ち、その奥に勤番所と、当時の模様が鳥瞰図で詳しく描かれる=図1

図1・松浦武四郎が描いた、安政3年のヲタルナイ

 もう1枚。松浦武四郎から3年後の安政六年のヲタルナイを描く絵が、『100年の小樽』(市1965年発行)に載っている。秋田藩士、松本吉兵衛の『蝦夷地旅行日記』から、との説明が付く。
 右手前に大きな立岩が3本海中から飛び出しており、木柵に門構えがある運上屋の後ろが御用所。左側はようやく町並みがそろい出した小樽市街だ。屋根の波が続く先に寺の高い建物がそびえ、港町に付物だった遊女街のコンタン小路の文字も見える=図2

図2・安政6年のヲタルナイ

 和人出稼ぎ第1号の八木勘右衛門から250年たった慶応元年になった時、小樽内場所は314戸、1,143人が暮らす、西蝦夷第1の集落を形成していた。住民の内訳は男322人、女521人。本来は男ばかりの出稼ぎ地なのに、女が意外に多いのはそれだけ人間がよく動き、集まっていたからだ。

◆請負制が邪魔に

 定住者が増加すると、中間支配体制の運上屋の存在は邪魔になる。一般住民に自由な活動を保証することによって地域経済を発展させようとした幕府の新政策が、村並へ移行する動機になったといえよう。
 大阪中心の関西市場に直結した北国商人が自前の弁財船を使い、蝦夷地で出稼ぎ人から仕込んだ海産物を直接消費地へ運ぶ際、一手販売の既得権を主張する場所請負制度が邪魔になった。浜方と呼ばれた自前の出願者、出稼ぎ漁民が増えたことも、村並移行の背景にあった。
 蝦夷地での政治・経済体制としての“村並”は、1801(享和元)年に始まっている。小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追の道南六ケ場所が、昆布採りの出稼ぎ和人らの定着によって松前地と同様になった、として内地並に村制を敷いたのが「村並」。
 このころになると、東北・北陸地方からの出稼ぎ人が増える。日本海沿いに北上したニシン漁だけでなく、蝦夷檜と呼ばれた檜山の杣夫に砂金鉱夫といった業種にも、南部・津軽・秋田などからたくさんの人達が来た。
 道南六ケ場所に隣接する山越内・長万部両場所は、小樽内が村並になる前年の元治元年に村並になる。道南から始まった“アイヌモシリの和人化”が、この時期になってようやく積丹岬を越え、石狩湾沿いの小樽にまで到着した、という当時の情勢を示す。
 しかし、蝦夷地を再度直轄せざるを得なかった幕府は、財政的にも行き詰まっていた。そこで場所請負の大商人から経営資金を臨時調達しようとしたが、その意図に反し幕府への献金を拒否した者を「場所内の良民を圧制強欲で苦しめた」という口実を設け、場所の請負権を取り上げて直轄にした、のが真相だとの見方もされる。小樽内場所の請負人だった、恵比寿屋に対する浜方の人気は極めて悪かった、と伝える資料が残っている。

◆村役人と町づくり

 未開地から村並になったことで、恵比寿屋の建物を流用したりして、中途半端ながら村役人が置かれる自治体になった。名主に選ばれた山田兵蔵はまず道路造りの公共事業を始め、収納会所で住民から税金を徴収する。
 小樽史談会編『写真集小樽』(国書刊行会、昭和54年刊)の巻末付録1に“原図は慶応2年以降に作られた”と、説明が付く「小樽最古の見取り図」が載る。
 村並になった年であり、これほど詳しい町の地図はほかに見当たらない。しかし、歴年加筆したらしく明治5、15年以後のものが同記されている、と言う。図の出処が明記されていないので論評の範囲外だが、道路沿いの家屋まで記入される。図3はその一部。勝納川沿いの金曇町にかなりの家が集中しており、水天宮の丘の下に立岩の位置が示されている。

図3・小樽最古の市街見取図

 村役人としては山田名主に年寄が中野三蔵、さらにアツトマリ・クマウス・ハリウスなど場所内の各地に、頭取・小頭・百姓代といった住民代表が任命された。蝦夷地を再直轄した幕府は、江戸・大阪・堺・敦賀の4港に会所を新設し、蝦夷地の産物を対象に商売しようとする商人から買受け予約金を出させ、それを蝦夷地経費に充てようとする。当時既に西蝦夷随一の漁場になっていた小樽の産物が、城下を素通りしてしまっては松前商人が成り立たない、と幕府に陳情している。

◆近藤重蔵の提案

 前回1807(文化4)年の全島直轄が国後・択捉など帝政ロシアの千島沿い南下対策だったのに対して、今度の幕府直轄は、樺太の領有権を巡るロシアとの駆け引きが主眼だった。だから、幕府は北蝦夷と呼んだ樺太経営を優先する。
 文化四年、直轄直後の西海岸を視察した幕臣近藤重蔵は将軍家斉に拝謁し、「総蝦夷地御要害之儀付心得候趣申上候書付」を幕府老中に提出する。その中で、対ロシアの前線基地候補として(1)樺戸山麓(2)札幌西テンゴ山周辺、と並んで(3)小樽高島の奥を挙げた。「蝦夷地の西北部は高島を第一にし、陣屋を作って人民を自由に移住させることにより西海岸の要路に仕立てる」のがその内容だった。テミヤは西海岸最良の港で四季通じて荒れないから回船の停泊が多く、冬囲船が22隻、船乗り200数10人が越年した、との背景説明もしている。
 こうした重蔵の提案が日の目を見るのは、半世紀後の再直轄になってからだった。

◆最初から奥地、樺太相手

 本州各地との窓口になり、松前藩の財政を支えたのが福山・江差・箱館の松前3港。これに比べ、小樽港は最初から日本海やオホーツク海沿いの蝦夷奥地、特に樺太の漁場開拓の根拠地とされる。函館や室蘭と違い、軍事要塞がない商港としての沿岸貿易による後代の繁栄も、誕生と同時に運命付けられていた。
 初代名主の山田兵蔵が信香に日用百貨品の店を開いた時、「店に無いのは馬の角ぐらい」というジョークがとんだそうだ。こんな話が伝えられるのは、当時の住民がこの種の店に抱いた期待感の大きさを物語っていそうだ。現代から見ればコンビニストアの足元にも及ばないチンケな店だったろうに─。
 兵蔵が安政5年に建てた土蔵が、のちに石造倉庫群で有名になった小樽の土蔵第1号。山田は山を削り溝を掘って新地町を開くなど、初期のまちづくりの先頭に立っていた。土蔵を使って質屋も営業し、利息は月4分だったとか。この時代は信香に人口が集中し、手宮・色内は漁場で、商店は現金取引なしの年1回5月決算の掛け売りが一般的だった。